日本人の忘れもの 知恵会議  ~未来を拓く京都の集い~

意図的に忘れさせられた
合理的で柔軟な政治手法

青山忠正
佛教大学歴史学部 教授
青山忠正

◉あおやま・ただまさ
1950年、東京都生まれ。東北大文学部卒業、同大学院文学研究科博士課程単位修得、博士(文学)。東北大助手、大阪商業大助教授を経て、96年から佛教大助教授。同教授を経て、2010年佛教大歴史学部開設に伴い同教授。近世・近代移行期日本史を専攻。著書に『明治維新と国家形成』『明治維新の言語と史料』など多数。

1867(慶応3)年10月13日、二条城の二の丸大広間に、在京40藩の重臣50数名が集められた。翌14日、将軍徳川慶喜は朝廷に対し、「政権を帰し奉り」との上表を提出するのだが(大政奉還)、これに先立ち諸藩側の「見込み御尋ね」、つまり政権返上について意見を尋ねるため、主だった藩の重臣を呼び集め聴聞会を開いたのである。もっとも、慶喜本人が趣旨説明を行い、出席者が自由に質問して慶喜が答える、といった場面までが現れたわけではない。しかし出席者には上表の草案が配布され、意見のある者はその場に残るようにと、老中板倉勝静から達しがあった。
越後国新発田藩(溝口家10万石)の京都留守居役、寺田喜三郎も末席に連なっていた。喜三郎の生家は、もとは京都市中で呉服商「桔梗屋」を営む町人だった。代々、溝口家の呉服御用を勤めていたが、幕末に至り、京都の政治情勢が緊迫化するにつれ、正規の家臣を常駐させる必要が生じ、喜三郎は1863(文久3)年、家臣に取り立てられ、京都留守居役を命ぜられたのである。
京都留守居役とは、藩を代表して、公家との折衝や他藩との情報交換を行う役目で、安政年間以降、急速に重要性を増した。当時10万石の大名の留守居といえば、大したものである。
それにしても、町人が武士に取り立てられ京都留守居役に任ぜられる、という例はめったにない。これに抜てきされるだけあって、喜三郎は実に几帳面な人物で、毎日の執務記録「御用留」をはじめ、会計記録や諸藩からの廻状写しなど、膨大な史料を残した。
彼は、当然ながらこの聴聞会の件も書いた。登城し書付を渡されるまでの経過などを詳しく書き残し、上表草案も丁寧に筆写した。4年前まで町人だった者が、将軍を目の前にして、このような事態に遭遇するなど、本人も到底考え及ばなかったことだろう。
さて、こうした事実から、21世紀の私たちは何を読み取れば良いのだろうか。言えるのは、徳川の社会はその時代なりに合理的だったことである。政権返上にしても、将軍が独断で決定するようなことはしなかったし、聴聞会の場には、元町人まで混じっていた。徳川幕府の時代に、そのような意味で合理的で柔軟な政治手法が取られていたことは、明治の国家が成立した後は忘れられた。意図的に忘れさせられた、という方が正確である。権力とは、時にそうした操作をするものだということは、忘れないほうが良さそうである。

青山忠正

敵意とエゴイズムを
乗り越えるための思想と方法とは

安部龍太郎
歴史作家
安部龍太郎

◉あべ・りゅうたろう
1955年、福岡県生まれ。国立久留米工業高等専門学校機械工学科卒業。東京都大田区役所に勤務、図書館司書をしながら作家を目指し、90年、『血の日本史』でデビュー。2005年、『天馬、翔ける』で中山義秀文学賞を受賞、13年、『等伯』で第148回直木賞を受賞するなど著書多数。昨年11月まで本紙朝刊小説『家康』を連載。

昨年二人目の孫を授かった。私はめったに孫を抱き上げたりしないクールな性質だが、この子たちの未来のために何を行い、何を伝えるべきかを考えることは多くなった。
学生時代に文学に惹かれたのは、この世の価値観と自分が信じるものとの間に差があり過ぎたからだ。やがて文学作品の中でなら、自分が信じる世界を描くことができることに魅せられ、小説を書き始めた。
そうして社会の矛盾に対峙しつづけていくうちに気付いたのは、人間のどうしようもなさの原因は、敵意とエゴイズムを乗り越えられないところにあるということだ。
敵意を乗り越えられないから、戦争をやめることができない。初めは石や棒で戦っていたものが、剣を持ち鉄砲を使い、あげくは核兵器を満載した地球にしてしまった。
エゴイズムにとらわれるから、自分が豊かになるために他人や自然から収奪するようになり、格差や環境破壊を生み出した。そして今や原発を使用し、核廃棄物を大量に生み出すことによって、未来からまで収奪している。
今の豊かさを守るためなら、子や孫の時代に害悪を押し付けてもいいという考え方は、エゴイズムの最たるものである。
私が小説を書きながら追い求めているのは、こうした現状を変える思想と方法である。自然を崇拝し共存しようとしてきた神道のあり方、欲や執着から離れよと説く仏教の教えに答えはすでに示されているが、それを政治的な制度によって実現することは至難の業である。
ところが最近、「厭離穢土欣求浄土」の旗を掲げて江戸幕府を築いた徳川家康こそが、その壮大な試みに成功した史上唯一の為政者ではないかと考えるようになった。
幕藩体制による地方分権も、士農工商の身分の固定化による競争の排除も、農本主義の徹底による商業の抑制も、中庸を説く儒教の導入も、敵意とエゴイズムを制御するために考え抜かれた施策だったのではないだろうか。
私が家康の人生に興味を持ち、全5巻の計画で小説を書き始めたのは、そうした視点で家康をとらえることに大きな意味があると思ったからだ。
今はまだ第1巻を終えただけだが、命が尽きるまでにはすべてを書き終え、クールなおじいちゃんから孫たちへのささやかなプレゼントにしたい。

安部龍太郎

文化の豊かさ。心を動かしてこそ、
記憶に刻まれ次代につながる

池坊専好
華道家元池坊次期家元
池坊専好

◉いけのぼう・せんこう
小野妹子を道祖として仰ぎ、室町時代にその理念を確立させた華道家元池坊の次期家元。京都にある紫雲山頂法寺(六角堂)の副住職。「いのちをいかす」という池坊いけばなの精神に基づく多彩な活動を展開。2012年より、諸災害の慰霊復興や人々の幸せや平和を願い、西国三十三所の各寺院を巡礼献華し結願した。アイスランド共和国名誉領事。

東京オリンピック・パラリンピックを控え、日本の細やかなおもてなしや演出に注目が集まっている。リニューアルされたホテルでは和のテイストを生かしたしつらえが施され、外国人はもとより日本人にとっても忘れかけていた伝統的美感に再び触れるひとときになっている。人を迎えるとなると、花は、必ず思い浮かぶ一つだろう。伊勢志摩サミットでは2作を生け、日本独自の造形とそこに流れる美意識や哲学を各国首脳に見ていただくことができた。仏前供花が発展して室町期に成立した立花と、第二次世界大戦以降、民主主義の進展の中で生まれた自由花は、伝統的価値観と現代的価値観という対比の提示でもある。
昔から貴人のおもてなしとして、人は花を生けた。豊臣秀吉が権勢を振るっていた時、前田利家の所望により秀吉を迎えるために池坊専好(初代)が四間床に大作を生けたことが『文禄三年前田亭御成記』には記されている。格調高く、また、常緑のところから永遠を表す松をふんだんに用い、何本かの枝の良い部分を接ぎ合わせることで、理想的な躍動感ある一本の松の枝に見せたという。そして、後ろには猿の描かれた掛け軸が掛かっていた。それはまるで松林で猿が自由自在に戯れているかのような情景であったことだろう。一本の枝に見せるというその技術の高さもさることながら、この取り合わせるという趣向が面白く感じられる。文化は単体でも成熟し、また評価され得るが、他の分野と融合することによって相乗作用でより深くなったり、思いもかけない化学反応を起こし得る。
さて、専好の作品は一体どのような意図をもって作られ、それを鑑賞者である秀吉はどのように受け止めたのだろうか。目に見える造形や構成、また草木の瑞々しさの陰には、ただ綺麗で豪華ないけばなをもって喜ばせたいという素直な思い以外の意図は隠されていなかったのだろうか。さまざまな憶測や議論を起こすのも文化の豊かさであると思う。それは時として作者の意図から外れたり、一人歩きすることもあるが、ともかく人の心を動かしていく。逆に言うと、私たちは文化に触れる時、どこまでその見えない背景や真実に近づくことができるのだろうか。そして人に鑑賞され、評価され、心を動かしてこそ、形の残らないいけばなは記憶に刻まれ、次代につながっていくことができるのだ。
秀吉はどのように作品を見て、受け止めたのか。映画「花戦さ」でご確認いただけたら幸いである。

池坊専好

異なるものや新しいものへの好奇心を
どのように醸成していくか

位田隆一
滋賀大学 学長
位田隆一

◉いだ・りゅういち
1948年、兵庫県生まれ。京都大大学院博士課程中退。パリ第2大高等研究課程修了、専門は国際法、国際生命倫理法。京都大教授などを経て2016年から現職。京都大名誉教授。ユネスコ国際生命倫理委員、同志社大特別客員教授も務める。1990年安達峰一郎記念賞受賞。2001年フランス共和国教育功労章騎士章。

学長になって最初の新年を迎える。就任の時に掲げた大学のグローバル化の推進は道半ばだが、この間にグローバル化の意味をさまざまに考えさせられた。
滋賀大では、経済学部にも教育学部にも留学生が少なからずいる。しかし、英語で行われる講義は非常に少ない。そこで、私の目標は、英語のクラスを増やして、海外からの留学生がもっと多くこの大学で学びたい、研究したいという環境を作りたいのだ。しかし他方で、今いる留学生は日本語ができ、日本語で勉強や研究をしている場合が多い。これもグローバル化の一つのパターンだろう。どちらも大切にしたい。
そこで必要なのが、多様性を理解し受け入れることだろう。前任校ではイスラム系の留学生も少なくなかったから、メディテーションルームなるものも設けられて、われわれがよく知っている仏教やキリスト教以外の宗教に対する配慮があった。学内のコンビニにもハラルフードが置かれていた。私は毎年ゼミ生を自宅に招待するが、そこではさまざまな言語が飛び交う。食事も最初は何を供すればよいか分からなかったが、日本食でかなりの程度、対応できることが分かる。互いにそれぞれの国の文化への少しの配慮があれば親しくなれるし、親しくなればなるほど、相手の国の言語、文化や生活様式にも興味が湧き、理解が深まり、そこからさらに親しみが増す。
年末に12カ国から16人の研究者を招いて3日間、「死者と医学をめぐる生命倫理法」の国際ワークショップを開いた。そこでの共通言語は英語ではなくフランス語で、宗教や政治制度もさまざまだったが、出席者それぞれが他国の考え方や文化などに思いを馳せ、諸国間の比較に激論を交わした。それだけではなく、視察に訪れた仏壇工場でも、職人さんたちに身振り手振りでコミュニケーションを取りたがっていた。もちろん、つい先ごろ世界無形文化遺産となった和食も彼らの異文化理解の一つだ。面白いのは、彦根で見聞きし体験した一つ一つの出来事や事物について、日本的な概念や思想に結び付けて理解しようとしていることだ。それは、多くの日本人が大切にしている感性というよりも、論理的な意味付けであり、それ自体がすでに多様性を示している。
そこで思い当たったのが、異なるものへの好奇心だ。異文化とのコミュニケーションのツールとしての日本語や英語を介して、異なるものや新しいものへの好奇心をどのように醸成していくか。これを学長としての新しい年の宿題にしたい。

位田隆一