日本人の忘れもの 知恵会議  ~未来を拓く京都の集い~

文化をもとに「アジア」を世界単位へ
その原動力となるのは京都である

井上満郎
京都市歴史資料館 館長・京都市埋蔵文化財研究所 所長
井上満郎

◉いのうえ・みつお
1940年、京都市生まれ。京都大大学院博士課程修了。京都産業大教授などを経て現在、同大名誉教授、京都市歴史資料館長、市埋蔵文化財研究所長。専門は日本古代史、京都歴史・京都文化。2009年11月、京都新聞大賞(文化学術賞)受賞。11年11月、全国社会教育功労者文部科学大臣表彰。著書に『桓武天皇』『平安京の風景』『古代の日本と渡来人』など。

昨年11月にプレシンポジウムがもたれたが、今年「東アジア文化都市2017」が日本の京都市、それに韓国テグ広域市・中国長沙市があい集って本格的に実施される。
昨年の世界の大きな話題に、イギリスの欧州連合(EU)離脱がある。一世紀前、日本人を母に持つカレルギーによって唱えられたヨーロッパの統合はまず欧州経済共同体(EEC)、やがてEUとして結実した。欧州は新しい歴史を歩んできたのだが、そこにほころびが生じ始めたのである。これと合わせて、拡大し続ける中国、新しい大統領になるアメリカ、世界がどこへ向おうとするのか、いっそう読めない時代になったように思う。
歴史学での「東アジア」は、日本列島・朝鮮半島・中国大陸をいう。漢字・仏教などを共通の文明として、互いに影響を及ぼし合いながらその歴史を形成してきた。しかしその統合がアジェンダ(政策課題)になったことは一度もない。日本が国際社会に入って二千年、なるほど明治以後「アジア主義」と呼ばれる思想が現われはしたが、具体化することはなかった。
混在しつつも地域や民族がそれぞれ独自の社会を保ち、時には衝突しながらのアジアの歩みは、確かに統合という概念とは相容れないように見える。しかしアジアはそれだけ若いのだ。若さには過ちが伴う。いさかいも起こる。だが若さは未来そのものであり、そこへ向かう大きなエネルギー、可能性をアジアは秘めている。
その時基底となるのが文化である。シルクロードは、一本の細い道ではあってもアジアを東西に貫き、人と文化の交流に貢献した。地域や民族が自分たちだけで歴史を形成したわけではないのであり、豊かな交わりがアジアにはあった。そうした交わりの果実の文化をもととして、アジアは一つの世界になることができる。むろんそれは国家の統合といったことなどではなく、アジアという、ヨーロッパの影として低められ、長く目覚めることのなかった地域を、世界を構成する単位として甦らせることである。そしてヨーロッパとは異なる、通い合う文化を基底とする豊かな共生社会をつくることである。
この時に京都の果たす役割は大きい。頻々と王朝が交替し、その度に蓄積されてきた文化を消耗していった中国大陸・朝鮮半島に比べて、日本は国際的に安定した国家と社会を保った。そしてその中心だったのが京都だ。京都はアジアのモデル都市として、アジアが世界単位へと飛躍する原動力になりうるし、またならねばならないのである。

井上満郎

「恩」ということの大切さ

大谷暢順
東山浄苑 東本願寺 法主・本願寺文化興隆財団 理事長
大谷暢順

◉おおたに・ちょうじゅん
1929年、京都生まれ。東京大文学部、ソルボンヌ高等学院卒業。パリ第7大文学博士。名古屋外国語大名誉教授。フランスパルム・アカデミック勲章叙勲。現在、本願寺文化興隆財団理事長、東山浄苑東本願寺法主、ジャポニスム振興会会長。『歴史に学ぶ蓮如の道』『人間は死んでもまた生き続ける』など著書多数。ジャンヌ・ダルク研究者でもある。

私は40数年前、東山三十六峰の一、六條山に納骨墓所を創設しましたが、今や50万人の壇籍者の参詣する世界一の大聖地となりました。
そして昨年11月9日、第14世ダライ・ラマ法王が初めて六條山の当東本願寺に参詣されました。東本願寺とチベットとの縁は深く、明治期に私の曽祖父、東本願寺22世現如上人が、第13世ダライ・ラマ法王への親書を託し、わが国初のチベットへの公式な使者として、能海寛を派遣したことに始まります。
百有余年の時を超えて、第14世ダライ・ラマ法王と共に、われわれも大乗の祖師龍樹菩薩の流れを汲む者として、この御堂にて御本尊を拝し、仏法を語り合えた仏縁を、深く喜んでおります。
われわれは日常、インターネットのサイトやテレビ、新聞などで、種々忌まわしい報道を見聞きしますと、数人で集まってそれを語り合い、大いに慨嘆し切歯扼腕して、世を嘆くことがあります。しかしそんなことをしても、世の中は少しも良くなりません。
実はこのようにして、われわれは不幸の種を探し、われわれ自身を不幸に追い込んでいるのです。これほど愚かなことはないではありませんか。
人世の目的は〝仕合わせ〟になることであると、当日法王と私は語り合いました。そして仕合わせになるためには、思いやりの心が肝心であります。
思いやりの心とは、畢竟、恩を感じ合うことにほかなりません。「恩」ということの大切さを、久しくわれわれ日本人は忘れているのではないでしょうか。
恩については、父母の恩、国王の恩、師友の恩、衆生の恩、また天地自然の恩などということが説かれます。
それに「報恩」恩に報いる、「知恩」恩を知る、などの熟語がありますが、私はやはり恩は感じるもので、「感恩」と考えるべきではないかと思っています。
恩は元々梵語のkrta-vedin, upakaraなどの仏教経典の言葉を翻訳するにあたって、この漢字を充てたものかと思いますが、これなどには、「恩を感じるもの」という意味があるようです。ですから、恩は報恩知恩というより感恩と漢語訳した方がよかったのではないかとも思います。
恩には、恩を与える者、例えば父母とか先生とかと、その恩を受けて、それをありがたいと感じる者、例えば子とか生徒とか、両者の間に、いわば感応道交がなければならないと思うのです。
この両者共々喜び合い、幸福を感ずる、心と心が通じ合うことが大切で、そこにみんなが仕合わせになる道が開けてくるに違いありません。

大谷暢順

美しいものが日常の中にある生活
京都は、これを忘れないでほしい

大原謙一郎
大原美術館 名誉理事長
大原謙一郎

◉おおはら・けんいちろう
備中倉敷の商家の9代目。神戸に生まれ、小学校から京都で過ごす。洛星高等学校卒業後、東京大経済学部、エール大(アメリカ)大学院に学び、1968年倉敷レイヨン(現クラレ)入社、副社長を経て、1990年中国銀行に転籍、副頭取を経て99年退任。現在、大原美術館名誉理事長、倉敷民芸館理事長、倉敷芸術科学大客員教授。

私たち日本人は生活の中に美しいものを取り入れるのが上手だといわれてきた。ハレのよそ行きだけでなく、何気ない日常の道具や生活の佇まいの中に美しいものがたくみに取り入れられていると、世界から賞賛されてきた。
私は、倉敷で大原美術館のほか、倉敷民芸館の運営にも関わっている。そこには、美しいものを見いだす卓越した眼差しを持っていた柳宗悦と同志たちが、庶民の暮らしの中から見つけてきた、器、カゴ、ザル、織物、家具、道具類などが展示されている。これらの品々の美しさは格別である。本当に、生活の中に美しいものが根付いていたのだと、改めて感じさせられる。しかし今、私たちの周囲を見回してみて、生活の中に美しいものが上手に取り込まれている様子がうかがえるだろうか。少々心もとなくはないだろうか。
昔の美しい生活が今に残っていないことを嘆いているわけではない。いまさら、昔ながらの炉端にくつろぎのある生活に戻れるわけもない。
しかし、それならば、今の日常の中に「生活に美しいものを取り込む」という思いが生きているだろうか。今の時代の生活様式の中に、新しい美しさが生まれているだろうか。
心もとないのは、そこである。
もちろん、希望がないわけではない。今でも、美しい生活を守ろうと頑張っている街は全国に少なくない。私の住む倉敷もその一つでありたいと思う。
さて、それでは、肝心の京都は大丈夫だろうか。大丈夫であってほしい。京都は日本の文化首都として、生活の中に新しい美しさを取り込むチャンピオンであり続けてほしい。倉敷とか、その他心ある町々の大きな兄貴分として、日本の心の佇まいを体現し、日常の生活を美しく保つ街であり続けてほしい。私たち地方の民は、心からそう願っている。
京都は、大伽藍がそびえ国宝重文が溢れる堂々の文化首都である。同時に京都には、生活の中にも文化首都の香りがにじみ出る、美しい街であり続けてほしいと思う。
「日本人の忘れ物は、京都では、忘れ物やおまへん」と胸を張って言い続けていただいてはじめて、京都は全国から仰ぎ見られる文化首都たり得るのではないだろうか。

大原謙一郎

見失っている人間個人の余裕

小川さやか
立命館大学大学院・先端総合学術研究科 准教授
小川さやか

◉おがわ・さやか
1978年、愛知県生まれ。京都大アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程指導認定退学。博士(地域研究)。立命館大大学院先端総合学術研究科・准教授。専門は文化人類学。主著に『都市を生きぬくための狡知』(世界思想社、2011年・第33回サントリー学芸賞)、『「その日暮らし」の人類学』(光文社新書、2016年)。

香港はチャイニーズドリームを狙う者たちの玄関口である。大企業だけでなく、世界各地からさまざまな交易人たちが集まる。
日本から香港に中古自動車を卸し、アフリカ人相手に商売をしているパキスタン人社長と会食をした。日本で長年商売をした彼は、「不幸せな日本人」について滔々と語った。日本人は真面目だが、常に生活や人間関係の維持に汲々として、余裕がまったくないと。
タンザニア人のセム(仮名)は、香港の企業に他のアフリカ系交易人を仲介したり、アフリカ系商人から注文された品を香港や中国本土で探して輸出するディーラーだ。セムは、取引相手であるパキスタン人社長との約束に3時間も遅れても、社長の椅子に座りセルフ写真を撮っておどけ、社長が現れ説教されても「あいつはすぐ怒る」などと平然とする。社長が自分をないがしろにしたら、15カ国のアフリカ系交易人とのネットワークごと立ち去るだけだという。
セムたちディーラーは、びっしりと電話番号を登録した携帯を2、3台持つ。アドレス帳には石油企業の社長から大物政治家、詐欺師や囚人までいる。どの人も等しく大事だ。詐欺に遭った時に適切なアドバイスをくれるのは詐欺師かもしれない。この関係は、自然に増殖したものらしい。日常的に顔をあわせる関係は、日々の小さな貸し借りを潤滑油としてうまく回っている。その他はいつどのような形で「貸し」が返ってくるか分からない関係であり、その大半は「スリープ」状態だ。だが、数十年ぶりでも、その誰かが自分を助ける、あるいは自分が誰かを助けられる可能性があれば、即興で友情は目覚めるようだ。相手が乗り気じゃないなら、別に構わない。網に投げたSOSは、バラエティーに富んだ仲間の誰か一人くらいは受け止めてくれる、そういう感覚で、一つ一つの関係に過度に期待しない。その気軽さが、自律的な「セーフティーネット」の基となっている。
セムたちには、人生が安定すると錯覚させる制度的保障はないし、国家や企業が権威付ける社会的地位もない。彼らはそうしたものに余裕の根拠を求めない。現在、日本人は保障を求めるほど、確実な未来を設計するほど不安になっているように思える。着信もメールも親切を受けた「借り」も返さないと不安になる。個々の人間関係に確実な互酬性を求め、維持する関係が増えるほどに窮屈になる。制度に過度に期待させられることで見失っている人間個人の余裕を、「日本人の忘れもの」としたい。

小川さやか