日本人の忘れもの 知恵会議  ~未来を拓く京都の集い~

「文化都市」京都を築くためにも
心を整え町を整える強い意志を

佐々木丞平
京都国立博物館館長
佐々木丞平

◉ささき・じょうへい
1941年、兵庫県生まれ。京都大大学院文学研究科博士課程修了、文学博士。京都府教育庁技官、文化庁調査官、京都大大学院文学研究科教授を経て、2005年4月より現職。主な著書に『古画総覧』『与謝蕪村』『池大雅』『浦上玉堂』『円山応挙研究』など。1997年国華賞、日本学士院賞、2000年フンボルト賞、2013年京都市文化功労者受賞。

2020年は東京五輪・パラリンピックが開催されるが、京都は文化都市としての格をさらに上げていくために本腰を入れていかなければならないだろう。ところで、われわれが「ああ、いかにも文化の香りのする町」と実感できる都市の姿はどのようなものなのだろう。それは恐らく極めて身近な体験からも理解できる。仮に町に一歩足を踏み入れたとしよう。そこでたまたま出会った子どもがいかにも礼儀正しく、尋ねたことにきちんと答えてくれた。あるいはたまたま乗ったタクシーの運転手さんがとても親切だった、となると、そこに住む人々のモラル教育が行き渡っていると感じる。空気も非常に綺麗だとなるとその都市が環境問題にとても敏感に取り組んでいるのだろうと想像させる。さらに町並みがとても美しい、あるいは家々の窓や門前に綺麗な花の姿も垣間見られるとなると、都市計画がきちんとしていて住人の美しい町造りへの関心も高いのだろうと感じもする。歴史遺産がきちんと整備され、美術館、博物館、音楽ホールや能楽堂といった文化施設も充実しているとなると、文化に対する意識も高いと感じる。そしてその都市の住民が自らの町に対してきちんとした誇りを持ち、華美ではないが物質的満足と精神的満足の程よいバランスの中で生活しているといった都市と住民の姿を見ると、それを見ている側までが幸せな気分になる。文化都市の条件とは、例えばこうした都市の姿なのかも知れない。
翻って現実の京都はどうであろうか。子どもに対するモラル教育は十分であるか。町を美しくしようと、景観条例なども整備されてきたが、今なお町の至る所に電線が張り巡らされて景観を損なっているのでは。車の排気ガスがなお空気を汚してはいないか。京都を特徴付ける歴史遺産の維持管理は十分であるのか。京都の町に誇りを持ち遠来の客を心から迎える心の準備が十分にできているか。こうした文化都市であるべき条件をよくよく考えてみると、その達成度はまだまだ不十分で、こうした文化都市としての条件を成し遂げるための意思と真剣度をもう1ランク上げなければならないだろう。
孔子が言っているように、人に親切で素直で慎み深く、人を広く愛し、平和を愛し、人の幸福を願い、そしてそうした人としての心が整ったその先に文化は花開く。本当の意味での「文化都市」京都を築くためにも、一人一人が心を整え町を整える強い意志を持ち、臨んでいく時が来ているように思える。

佐々木丞平

琳派400年の年を迎え
「私淑」の伝統を現代に生かそう

佐藤 敬二
京都精華大学デザイン学部教授
佐藤 敬二

◉さとう・けいじ
1948年、京都生まれ。京都市立芸大卒。京都市工業技術センター(現、産業技術研究所)研究部長を経て現職。意匠学会副会長。日本デザイン学会、民俗芸術学会、茶の湯文化学会、生活文化史学会などに所属。専門は伝統産業論、デザイン論、素材論、近代工芸史。伝統的工芸品産業産地委員、京都市伝統産業振興センター(ふれあい館)理事。

今年は琳派400年の年といわれていますが、1615年に本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)が家康から洛北「鷹ケ峰(たかがみね)」の地を与えられ、法華宗のユートピアである工藝(こうげい)村を開いてから400年なのです。400年前の1615年はどのような年だったのか。大坂の役・夏の陣で徳川氏が豊臣氏を滅ぼしました。関ケ原の戦い(1600年)後も、豊臣秀頼は大坂城に住み、莫大な軍用金を持ち、徳川の天下にとって恐るべき存在でした。家康は1615年に猛攻をかけ大阪城は落城し、豊臣家は滅びました。また同年、織田信長・豊臣秀吉に仕え利休の一番弟子であった古田織部は、利休の死後2代将軍秀忠の茶道教授となり徳川家の文化顧問的存在でしたが、大坂の役で豊臣方との和平を進言したことから内通したとして自刃させられます。
当時、長谷川等伯など法華宗には文化人が多く、一大宗教勢力である浄土真宗・一向宗と対立したといわれます。信長が石山本願寺と長年戦争をした状況を知っている家康は、法華宗を奨励し、一向宗の対抗勢力として育てたのではないでしょうか。
そのような中で、光悦や俵屋宗達(たわらやそうたつ)の富裕な町衆芸術ともいえる造形は、幕府御用達の狩野派とは別様の芸術活動として花開きます。狩野派には粉本といわれる手本があり、師匠から弟子に直伝される画風は、まだ見ぬ虎や架空の動物も描くことが出来ました。対して光琳派の人々はそれぞれ私淑(ししゅく)(直接教えを受けていないが、その人を慕い、その言動や画風を模範として学ぶこと)し、光悦の没後100年ごとに尾形光琳(おがたこうりん)・乾山(けんざん)、酒井抱一(さかいほういつ)、鈴木其一(すずききいつ)、神坂雪佳(かみさかせっか)と天才的な絵師・デザイナーが誕生しました。それらの人々は1970年代になり琳派と呼ばれます。
明治まで工藝と美術の別はなく、琳派の人々は能や謡曲、和歌など生活文化に根差した絵師でした。衣・食・住にわたる生活の場で、「装飾」と「機能」の造形を行い、生活様式の創造をしてきました。「工藝」と「デザイン」のコラボレーションは琳派に始まったのです。発注者と受注者が明確で、現在の5W1H(いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように)がはっきりしていたのです。
現在のマニュアルに沿った教育、また狩野派のように手取り足取り伝習をしなくても、本人の感性が優れ、目利きで熟達する努力をすれば、憧れの先達に私淑するだけで、文化や技術は伝承されてきたことを思い出すべきでしょう。現代の生活において私たちはそのことを常に思い出し、肝に銘じて造形やデザイン活動をしなければならないと思います。

佐藤 敬二

未来の人々に恥じないものを
作らなければと思う

諏訪蘇山
陶芸家
諏訪蘇山

◉すわ・そざん
1970年、京都生まれ。父3代諏訪蘇山・母12代中村宗哲の三女。京都市立銅駝美術工芸高校漆芸科卒。成安女子短期大造形芸術科映像専攻卒。京都府立陶工高等技術専門校成形科・研究科修了。京都市伝統産業技術者講習陶磁器コース修了。2002年、4代諏訪蘇山を襲名。04年から各地にて諏訪蘇山展を開催。

昨年のこと。長次郎の茶碗(ちゃわん)二碗をガラス越しに見た。お茶碗の外側のラインや内側の削り具合、肌合いなど、そこには千利休と長次郎からの密度の濃いメッセージがいっぱい詰まっているようで、穴があくほど眺めていた。
あるお家にお茶事に呼ばれたときには、江戸時代の美しい蒔絵(まきえ)が施された棗(なつめ)を手に取らせていただいた。その細かい蒔絵は緻密な一本一本の線に一分の隙もなく、人間の手でこういうことができるんだと、あらためてその技術に敬服した。そして、どんな職人さんが作ったのだろうとも思った。若い良い目の職人さんかそれとも熟練のベテラン職人さんか。
作品に作家の名前が刻まれていることはあるが、職人たちの名前は刻まれていない。けれど、その技術は確実に刻まれ、その作品がある限り何百年も生き続ける。そんな人々が日本の美を支えてきたのだ。
今は大量生産大量消費の時代。お店には物が溢れている。最近は早く壊れるように作られているのだとか…。ショッピングセンターに大量の商品が置かれているのを見ると、この品物たちはこの先どうなるのだろうと少し怖くなったりする。この品物たちが今の日本を支えているのだろうか。
この豊かな時代は、戦後の貧しい時代を生きてきた私の両親の世代が、子どもたちに豊かな暮らしをさせられるようにと必死になって働いて築き上げてくれたのだと思う。もう十分に豊かになった今、未来に向けてどういう理想を掲げてこの国を造(つく)っていけばいいのだろうか。
毎日ゴミの分別をしながら、エコノミーとエコロジーについても考える。この二つはなかなか折り合いが付かないらしい。この先、エコロジーがエコノミーを支える時代になっていくのか。
土を焼いて焼き物にしてしまうと、土には返らない。失敗作を割る度に、この欠片(かけら)たちはどこかの埋め立て地へ送られて、何かの役に立っているだろうかと心配になる。何を作るにしても常に未来への責任を感じていかなければならないし、未来の人々に恥じないようなものを作らなければと思う。百年後、二百年後の人たちが、私の作品を手に取った時どう思うだろうか、何百年も大事にされてきた作品を見ながらそんなことを考えた。
工業製品でも、美術品と呼ばれる物でも、貴重な地球の資源を消費している、言い換えれば、地球が育んだ命をいただき、新しい命を吹き込むのだから、その材料にもその作品の行く末にも、責任を持って物を作れているか常に問い続けたい。

諏訪蘇山

「いただきます」「ごちそうさま」
感謝の気持ちがこもった尊い言葉

髙橋英一
瓢亭14代当主
髙橋英一

◉たかはし・えいいち
1939年、京都市生まれ。同志社大卒業後、東京、大阪の料理店で修業。64年、瓢亭に戻り67年、14代主人を継承。京都料理芽生会会長、全国芽生会連合会理事長、京都料理組合組合長、日本料理アカデミー会長を歴任。京名物百味会会長。著書に『瓢亭の四季』『京都・瓢亭-懐石の器とこころ』『瓢亭の点心入門』『もてなしの美学-旬の器』など。

日本語にしかない「いただきます」と「ごちそうさま」のさりげない大切さを、いま一度考えてみるのはいかがでしょうか。
飽食の時代といわれる現在、あらゆる食材が全国各地から、いや、世界中から手軽に取り寄せられる時代となりました。稀少価値の物から高級な食材までいろんな手段で手に入ります。
私は小学校に入学した年に終戦となり、最後の国民小学校の生徒でした。
料理屋でありながら食材が手に入らず、商売どころか家族が食べる米も十分に無く、毎日さつま芋(いも)のツルで増量した「芋ヅル粥(がゆ)」を食べていたツルの色の美しさを今でもはっきり覚えています。そんなとき、たまにいただくさつま芋がすごいご馳走(ちそう)で、皆で手を合わせて「いただきます」とかぶりついた感激はあの時代ならではのことで、食べ物に対する感謝の念は純粋だったと時折思いおこします。
今ではデパ地下の食料品売場で欲しい物は何でも手に入り、また、コンビニなどでは、よくぞここまで安く出来るなと思える弁当が出回っています。これらには全て賞味期限が定められ、少しでも過ぎると廃棄処分になるという、実にもったいない日常が現実です。自分たちの若いころは食べ物がいたんでいるかどうかは、自分の鼻で確かめ舌で判断したもので、賞味期限の言葉すら知らなかったと思います。
「お正月」何と心地よい響きの言葉でしょう。昔は店屋さんもほとんどが休みで、それぞれ家族はのんびりと祝ったものです。入るものは違っても母親が作ったおせち料理の数々。手間暇かけて作った中身は質素でも愛情のこもったもので、その周囲には楽しい一家団欒(だんらん)の姿がありました。
また、銘々のお膳や雑煮椀(わん)にも家紋が入っていて、箸袋にはそれぞれ個人の名前が書いてあり、これを前にすると、新しい年を迎えて気持ちが引き締まる思いになります。そして一同お屠蘇で新年を祝い、手を合わせ「いただきます」とおせち料理を楽しみます。
この何気なく使う日常の一言を深く考えると日本人の持つ心の豊かさ、穏やかさがよく表れていると思います。
おせち料理も今やデパートで買うものといわれるほど、数多くの料理屋の見本が並び、選び放題。天然物の食材が減少してきているこの時代に、いま一度食料品に思いを込めて、食後に合わせる手のひらに「ごちそうさま」と、素直な気持を再発見するのも小さな日本文化ではないでしょうか。
なぜならばこのひと言は、日本語でしか言い表わせない感謝の気持ちがいっぱいこもった尊い言葉なのですから。

髙橋英一