京都発「日本人の忘れもの」キャンペーン第2部
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- 第43回 忍耐力
第43回 4月21日掲載 対談
- 忍耐力
- 行儀作法、目上の人を敬う心が不可欠
ワタキューセイモア株式会社 代表取締役社長
安道 光二 さん
あんどう・みつじ 1941年、島根県生まれ。立命館大経済学部卒。57年、綿久製綿株入社。取締役兼東北支店長を経て97年、代表取締役社長就任。社日本病院寝具協会理事長や日清医療食品株代表取締役会長兼社長、京都府ソフトテニス連盟・京都市ソフトテニス連盟会長を務める。
- 多くの人に出会い、支えられたおかげ
日本画家
森田 りえ子 さん
もりた・りえこ 1955年、神戸市生まれ。80年、京都市立芸術大大学院を修了。86年、第1回川端龍子大賞展大受賞後、京都市芸術新人賞、京都府文化賞功労賞など数多くの賞を受賞。京都の伝統文化を受け継ぐ舞妓など卓越した描写力で表現。2013年、京都市立芸術大客員教授に就任。
- 2人の出会いのきっかけとなった森田りえ子さんの作品「粧」。(2002年)
安道◉当社は病院・福祉施設で使われる寝具や白衣のリース事業を中心に、病院給食、経営管理、建築など医療福祉現場を総合的にサポートするサービスを提供しています。社是は「心」で、「仕事をさせて頂いている、仕入れ先に売って頂いている」という感謝の気持ちと謙虚な姿勢を社員に徹底して教えています。
日本人が先人から受け継いできた行儀作法や、目上の人を敬う心は、円滑な仕事や生活をする上で不可欠だと思いますが、戦後からは特に、この感覚が失われてきたように思えてなりません。おそらく学校や家庭でのしつけが変化してきたのでしょうね。
森田◉第2次世界大戦後、民主主義社会になったことで、教育も個々を最優先する風潮が高まったようです。私の世代では、両親をパパ・ママと呼び、「自由に好きなことをしなさい」と育てられました。美術の世界へ進むと決めた時も、両親は頑張りなさいと応援してくれました。母方の祖父が趣味で長年、油絵を描いていたこともあり、祖父母も賛成してくれました。画家を志した時には、先人たちの残した多くの美の遺産を研究するなど、自分なりに勉強しました。そんな自由な時代に教育を受けた私たちは、逆に自分自身に対して能動的に生きる術(すべ)が身に付いたように思います。
画家の世界では、誰しも基礎力を身に付けるために写生などの修業をするものです。ところが最近の学生は時間をかけて努力することを嫌い、すぐ有名になりたいと言います。在学中に個展を開いて作品を売る人もいますが、若い時期からアウトプットばかりを重ねると、長続きしません。やはり何事も基本ができてこそではないでしょうか。
安道◉現代社会では努力せずに結果を求める傾向があるようで、入社してすぐに辞める人も多いと聞きます。どんな仕事も3年続ければ板につくものですから、新人の方はまず3年間頑張って勤めてほしいものですね。
仕事をする上で欠かせない礼儀、身だしなみ、忍耐力などは、本来、社会へ出る前に備えておくべきですが、採用面接などで新卒者を見ていると、身に付いていない若者が、多く見受けられます。それなら自社で教えようと、2011年、京都本部内に寮制の新入社員研修センター「一心館」を設けました。「大学5年生」と位置付け、1年間かけて、おじぎなどの作法や基本的なビジネスマナー、英語学習、現場での実習など、人間力と実践力を養います。能力だけでなく、寮生活において仲間への思いやりや絆が生まれ、何でも相談できる友人が得られることも掛け替えのない経験になるでしょう。「一心館」で育った社員は、いつも礼儀正しく、プレゼンテーションが上手で、強い向上心も持っているので、将来が楽しみです。
森田◉私は20代の頃、日本画家を目指して第一に取り組む課題として、人体デッサンと花の写生を何度も繰り返しました。最初は思うように描けませんが、3年ほど続けると、だんだん手が動くようになり、色彩感覚なども自然から学んだように思います。私は京都市立芸術大学の日本画専攻科を修了してから、まず5年は頑張ろうと決心して描き続け、ちょうど5年目に第1回川端龍子賞の大賞をいただき、そこから軌道に乗り始めました。地道な努力はもちろん、多くの人に出会い、支えられたおかげでもありますので、自分一人の力だとは思っていません。大切なことは、諦めない精神力、偉ぶらない謙虚な姿勢、感謝の心を持ち続けることのように思います。
安道◉何事においても「人」が何より大切ですね。知識や技術だけでなく、人としての魅力を身に付けられるように、これからも社員教育に力を入れたいと思います。
出会いに関して裏話を一つ。私は15歳で当社に就職し、仕事をしながら高校、大学と夜間学校に通っていたのですが、いつも夜11時過ぎに寮へ帰ると食事が残っていませんでした。食べ盛りの10代にとって、夕食代わりに水を飲むだけという、ひもじい体験は大変つらいものです。おかげで少々のことには動じない強い心身が得られたように思います。しばらく後に当時の社長に相談したところ、弁当の用意とともに社長の娘さんが毎晩起きて待っていてくださり、話しながらご飯を食べるようになりました。そのうちに彼女と仲良くなって結婚し、これまで村田家が代々継いできた当社で初めて、同族以外の私が社長になったというわけです。厳しい環境下で得られた忍耐力とご縁のおかげで、現在の私があるのだと思います。今の若い人も、「苦労をいとわない姿勢」を忘れないでほしいですね。
森田◉とてもドラマチックなお話ですね。感動しました。実は、2002年に京都で個展を開いたときに、安道社長が会議室に飾る絵を探して来場されて、作品を気に入ってご購入くださったことが出会いのきっかけでした。この一期一会にも感謝しています。
つらかったことといえば、修業時代に炎天下や極寒の環境で何時間も写生を続けたことです。最初は一つのことをずっと続けることが苦手で、何度も投げ出したくなりましたが、鳥の声や風の音に耳を傾けるうちに、自分も自然の一部であると感じ始め、やがて雑念の全てを忘れて絵筆がどんどん動きます。花などの対象と会話しながら描けるようになると楽しいですよ。自然に抱かれ植物や昆虫たちと語り合うこともまた、現代人が忘れかけている感覚かもしれませんね。
きょうの季寄せ(四月)
鶫は秋の季題、だが春が来て大地があたたまり、這うように靄が立ち動く頃、餌を啄む鶫を見かけることがある。
蛇笏は「鶫罠(つぐみわな)畑の岩にも餌をすこし」「罠のへにたちとまりたる鶫かな」とも詠んでいる。霞(かすみ)網はご法度(はっと)になっているので、一網打尽とはならないが、このような光景があった。鶫は常に危険にさらされていた。
(文・岩城久治)
「きょうの心伝て」・43
池上 博 さん 公務員(京都市南区/54歳)
雷オヤジ
人々から阪神・淡路大震災(平成7年1月17日)の記憶が薄らいだ頃に、東北大震災(平成23年3月11日)が発生した…。
昔から怖いものの例えに「地震・雷・火事・オヤジ」と言われてきたが、地震、雷、火事は確かに今も怖いが、いつからかオヤジは優しくなった。
私が小学生の頃、近所には、他人の子どもでも悪いことをすると叱る「雷オヤジ」がいたし、酒屋を営んでいた明治生まれの祖父は、孫の私にも大変厳しく、よく雷を落とされた記憶がある。
最近は、イジメや体罰の問題がマスコミを賑(にぎ)わしているが、昔のように学校、家庭、そして地域が連携して、子どもを時には厳しく、また時には優しく見守っていた時代には、こうした問題はあまりなかったように思う。
地震は無くなって欲しいが、「雷オヤジ」の復活は、今の社会には望まれているのではないだろうか。