日本人の忘れもの 第2部

バックナンバー

2013年
6月
5月
4月
3月
2月
1月
2012年
12月
11月
10月
9月
8月
7月

京都発「日本人の忘れもの」キャンペーン第2部

  • 最新記事
  • バックナンバー
  • 取り組み目的
  • 協賛企業
  • お知らせ

第39回 3月24日掲載

日本文化
現代の生活の中に取り入れ、生かしていかなければ、
日本文化は次々と過去の遺物になってしまう。

井口和起さん

寛仁親王家長女
彬子 さま

彬子女王(あきこじょおう) 1981年生まれ。寛仁さまの長女。2004年から10年まで英国オックスフォード大マートン・コレッジに留学、博士号取得。現在、慈照寺研修道場に勤務するとともに、立命館大衣笠総合研究機構特別招聘准教授や法政大国際日本学研究所客員所員を務める。また12年4月、子どもたちに日本文化を伝えるため、発起人の代表として「心游舎」を創設。http://shinyusha.jp/

日本美術・文化に携わるようになって、早10年が経過した。そのきっかけは、ささいな、いや、今思えばとても大きな一言だった。

まだ学習院大に在学中の19歳の時、英国のオックスフォード大に1年間の短期留学をした。当時の私はスコットランド史を専攻していたが、中国美術(考古学)専門の学長先生の日本美術に関する授業を受けていた。

2回目の授業の時だったか、先生から「浮世絵とはそもそもどのように見る(鑑賞する)ものなのか」という質問を受けた。現在の私であれば、「今は美術館や博物館で見るようになっているが、当時は現代でいう雑誌のようなもの。切り抜きのような感覚で壁に貼ったこともあったかもしれないが、どちらかといえば、普段はしまってあり、折々に取り出して見るものだ」とでも答えただろうか。しかし、それまでそんなことを考えてみたことがなかった当時の私は、その問いに上手(うま)く答えることができなかった。

文化は生活の中に息づいてこそ文化といえる

イメージ その1
昔ながらの手法で染められた和紙で作った、神前に供えられる造花。

この質問をきっかけに、私は日本人と西洋人の日本美術を見る視点の違いに興味を持ち、西洋人が初めて日本美術に出合った際、それをどのように見て、理解したかをテーマに博士論文を執筆することになった。でも、今改めてその質問を思うと、別のことに気付かされる。浮世絵の役割が、作られていた江戸時代と現代とでは別物になってしまっているということである。

今われわれが鑑賞する浮世絵を始めとする絵画や版画、陶磁器、漆器や根付などは、もとは日本人の生活の中にあり、実際に使われていたものである。でも、それがガラスケースの中に入り、「鑑賞する」ものになってしまったことで、急激に生活の中から離れてしまった気がする。庶民の娯楽であったはずの歌舞伎も、ちょっとおしゃれをしていかなければいけないような、高尚な伝統芸能になってしまった。もちろんそれが悪いと言っているわけではないけれど、もう少し日本文化は気軽に楽しめるものだと思うのである。

文化というものは、生活の中に息づいてこそ文化といえると私は思う。現代社会の生活の中に取り入れ、生かしていかなければ、日本文化は次々と過去の遺物になってしまう。それを防ぐために、今私たちは何ができるだろうか。その答えの一つとして生まれたのが「心游舎(しんゆうしゃ)」という団体である。

記憶を大切にすることが日本文化を大切にすること

イメージ その2
イメージ その3
心游舎提供

心游舎は、日本の未来を担う子どもたちに本物の日本文化に触れてもらうことを目的に昨年4月に発足した。かつては多くの人が集い、文化の発信拠点であった神社や寺も、今では冠婚葬祭や観光でしか行かないような非日常の場になってしまっている。その神社や寺を、子どもたちがもっと気軽に集まり、共同体で育児ができる場所に戻すというのが心游舎の目的の一つ。目指すところは、いわゆる現代版の「寺子屋」である。

その1つ目のプロジェクトが石清水八幡宮の御花神饌(おはなしんせん)ワークショップである。毎年9月15日に行われる勅祭(ちょくさい) 石清水祭。このお祭りには、四季を表した12台の造花がご神前にお供えされる。植物染の和紙で作られるこの造花は、神様のお心を楽しませ、お慰めするための他の神社ではほとんど例を見ない特殊な神饌。もとは皇室からの特別なお供え物だったそうだ。それを氏子さんたちが作るようになっていったが、それが立ち行かなくなり、近年では京都の染屋である染司よしおかが一手に引き受けて調製しておられる。これを元の形に戻したいと考え、行ったのが、このワークショップである。

蝉(せみ)の声が賑(にぎ)やかな8月21日。多くの子どもたちが石清水八幡宮に集まった。まずは全員揃(そろ)って本殿に参拝。昔ながらの手法で赤・白・茶に染められた和紙と、ご飯を潰(つぶ)して作った糊(のり)、針金を材料に梅の花の台を作る。

当初は、人は集まるのか、楽しんでくれるのだろうかと本当に不安でいっぱいだった。でも、その心配は集まってくれた子どもたちの笑顔で吹き飛んだ。「楽しかった」「お祭りも見に行きたい」「また来年も作りたい」彼らの言葉一つ一つが最高のご褒美だった。

楽しかった思い出は心に残る。今は自分たちが何をしたのか分からなくても、大人になったとき、きっと彼らは「あ、これ子どものころに作ったな」と思い出すはずだ。そういう記憶を人は大切にする。そして、その記憶を大切にすることが日本文化を大切にすることになるのである。

 御花神饌はもちろん子どもたちの日常にはないものだ。でも、これを毎年継続していくことで、蝉の声を聴くと「そろそろ御花神饌を作る時期になったな」と思ってくれる子が増えてくれたらいいなと思うのである。

きょうの季寄せ(三月)
笹折(おり)て 白魚(しらうお)のたえだえ 青し 才麿(さいまろ)

大きさは芭蕉の詠んだ「明(あけ)ぼのや白魚白きこと一寸(いっすん)」、3・03センチメートルでおよそ知れようが、夏目漱石の「ふるひ寄せて白魚崩れんばかりなり」の句を目にすると、いかにもその姿態は哀れを誘う。

才麿は加えて白魚の透明感を把(とら)え、入れものに敷いた笹の葉の青さと相俟(ま)って、色の対比の美しさを感受して繊細である。
(文・岩城久治)

「きょうの心 伝て」・39

吉岡 宏恵 さん (京都府京丹後市/68歳)

着物の良さ、伝える幸せ

啓蟄(けいちつ)がもう間近だなと、思っていた矢先の2月の下旬。孫の高校2年生の女の子が初めての「初釜」を体験した。「おばあちゃん、帯は? 足袋は? 肌着は?」。突然で私の頭もこんがらがってしまった。それからそれぞれにアイロンをかけ、袴(はかま)にもかけたりしてバタバタの2、3日。もう20年も前に娘が成人式で着た無地の着物があったので、それを出してきて着付けしてもらった。15時を過ぎた頃、「おばあちゃん、終わったよ」と顔を見せに来てくれた。高校生と言っても着物を着ると、落ち着いて見える。初釜の体験で教わった色々(いろいろ)な所作をたくさん話してくれた。着ていった着物は、私が40代の頃に丹後ちりめんに携わっていた関係で自分で織った生地。その着物を娘が着て、孫が着る。私から数えて3代に渡り、その良さを伝えられたことを、今幸せに思う。ぜひ今の、いやこれからの若い人たちにも着物を着て欲しいと思った1日だった。

啓蟄=二十四節気のひとつ。「啓」は「ひらく」、「蟄」には「虫が地中にこもる」という意味があり、冬ごもりの虫が地中から姿を現す時期を指す。

協賛広告を含めた実際の掲載紙面の全体データはこちら(PDFファイル)

バックナンバー

ページ上部へ戻る