京都発「日本人の忘れもの」キャンペーン第2部
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- 第38回 文化交流
第38回 3月17日掲載
- 文化交流
- 政治的困難に直面している時こそ、
文化の交流と相互浸透が力を発揮することを
求められているのかも知れない。
京都府立総合資料館顧問
井口 和起 さん
いぐち・かずき 1940年、京都府福知山市生まれ。京都大文学部卒業。大阪外国語大助教授や京都府立大教授を務めるとともに、中国西安外国語大で日中戦争史の研究に従事。京都府立大学長、京都府立総合資料館館長を歴任後、現在、同館顧問、全国歴史資料保存利用機関連絡協議会会長を務める。主な著書は、「日露戦争の時代」「日本帝国主義の形成と東アジア」など。
19世紀末から20世紀にかけて中国に甲骨四堂と称される甲骨文研究の大家がいた。字(あざな)に堂がつく、雪堂羅振玉(らしんぎょく)・観堂王国維(おうこくい)・鼎堂郭沫若(かくまつじゃく)・彦堂董作賓(とうさくひん)の4人である。
最年長の羅振玉は、日本の東洋史学の泰斗(たいと)・「京都支那学」の旗頭となった京都帝国大教授・内藤湖南(こなん)と奇しくも同年である。
2人は早くから親交があり、1909(明治42)年秋、北京で敦煌(とんこう)遺書の写本が公開されると、羅振玉はすぐさま湖南に知らせた。送られてきた写本の写真を見た湖南は、朝日新聞で紹介する一方、11月には展覧し、講演会などを開いた。会場は京都御苑内から新築移転して4月に開館したばかりの岡崎の京都府立京都図書館だった。
羅振玉がもたらした文物が日本芸術界に大きな影響
- 1909(明治42)年11月、敦煌遺書の写真が展覧された、4月に開館したばかりの京都府立京都図書館。
1911年に辛亥(しんがい)革命が起こると羅振玉は難を避けて来日し、1919(大正8)年まで京都に移り住んだ。王国維も同道していた。彼らは、歴史家として湖南と交わっただけではなかった。来日の際にもたらした膨大な中国の文物は、京都を中心に日本の書画芸術界に大きな影響を与えた。
この羅振玉が1914年に京都府立図書館へ13点の図書を寄贈している。それらは現在の京都府立総合資料館にある。この中には、王国維の1912(壬子(じんし))年から翌13(癸丑(きちゅう))年の詩を集め、京都の聖華房から出版した『壬癸集(じんきしゅう)』も含まれている。
京都府立図書館と羅振玉との関係を改めて紹介したのは2008年の『総合資料館だより』 155号に記事を書いた文献課資料主任の西村隆さんだった。
もう1人の甲骨四堂、郭沫若は日本留学中の1924年に河上肇の『社会組織と社会革命に関する若干の考察』を中国語に翻訳している(『社会組織与社会革命』)。訳し終えた郭沫若は、河上に書簡を送り、この本は社会変革の経済的条件のみを強調して、政治的側面の問題をなおざりにしてはいないかと批判的な意見を記した。これに対して河上は直ちに批判を受け入れる旨の返信を寄せ、出版社に自著の発行停止を申し入れた。思いも寄らなかった河上の返信に接した郭沫若は、河上の学者的良心にいたく感動したと回想している。
河上肇ほど中国語に翻訳され広く影響を与えた例はない
- 京都府立図書館とともに、明治以来の伝統を受けつぎ、知の交流と蓄積の殿堂であり続ける京都府立総合資料館。
- 羅振玉が1914年に京都府立図書館へ寄贈した「壬癸集(京都図書館印)」(京都府立総合資料館蔵)。
河上肇は中国へ渡航した経験はない。しかし、外国人経済学者の著作で河上肇ほど中国語に翻訳され、広く影響を与えた例はほとんどないと言われている。
この河上肇の著書・蔵書・原稿などの遺品の一部が「河上肇文庫」として総合資料館に所蔵されている。これは、総合資料館が1972(昭和47)年に関係者の協力を得て開催した河上肇遺品展の後に寄託・寄贈された資料を出発点に、翌年に「文庫」として設置されたものである。
羅振玉と内藤湖南は、1930年代には「満州国」の建国にかかわり、日満文化協会の創設に共に参画した。
同じ時期、郭沫若は中国革命と抗日運動に身を投じ、革命後には中国科学院院長を務めた。河上肇は京都帝国大の職を辞して日本共産党の活動に加わり、治安維持法違反で検挙され獄中生活を送る。
政治的立場や行動では、羅振玉・内藤湖南と郭沫若・河上肇との間には越えがたい溝があるように見える。しかし、ともに学術や文化の交流・蓄積のうえに大きな足跡を残したことに違いはない。
政治の世界ではしばしば対立が激化し、人々にその去就と態度決定を迫る。革命は断絶を基礎に新しい社会関係を築いていく。
文化は継続的・持続的で、世界的な交流と相互浸透を繰り返しつつ、社会の深部に変化をもたらす。政治的困難に直面している時こそ、文化の交流と相互浸透が力を発揮することを求められているのかも知れない。
京都府立総合資料館はまもなく新館建設を迎える。岡崎の京都府立図書館と分かち合いつつ明治以来の伝統を受けつぎ、知の交流と蓄積の殿堂であり続けねばならない。「忘れもの」をしないように、歩んできた道を振り返っている昨今である。
きょうの季寄せ(三月)
3月31日まで行われている府内与謝野町立江山文庫の企画展「俳額と句碑」の明治紀元戊辰「奉額発句集」よりこの季節の句を抽(ぬ)いてみた。
与謝柴神社に奉納されたものであるが、各地に、俳句愛好家が産土の神社や檀那寺に奉納した俳額がきっと残っているに違いない。今日行われなくなった、文化活動の手立てである。
(文・岩城久治)
「きょうの心 伝て」・38
河嶋 智子 さん 主婦(京都市右京区/50歳)
「ほな、さいなら」
学生時代、今のように携帯電話も普及していなくて、友だちとのやりとりは、もっぱら自宅の電話からだった。中学生の頃は学校で部活を終えて、家までの道のりを歩きながらしゃべり、笑い転げながら帰った。それなのに夜になると、またあれこれ話をすることを思い出し、どちらからともなく電話をかけたりした。女の子同士、いつまでもぺちゃくちゃ他愛(たわい)もないことをしゃべり続けていた。
そんな私が10代の終わりに、生粋の京都人である彼と付き合い始めた。昼間も学校で話したはずなのに、夜になるとまた電話がかかってくる。そして2時間ぐらい話してしまうのだ。そんなある日、電話口の向こうで急に彼が「今日はもう切るわ」と言う。どうしたのかなと思っていると「横でおふくろが『ほな、さいなら』って言い続けてうるさい」と笑う。京女のお母さんは、私たちに不快な思いをさせることなく、やんわりと毎日の長電話に釘を刺されたのだろう。今も懐かしい。