京都発「日本人の忘れもの」キャンペーン第2部
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- 第36回 布施
第36回 3月3日掲載
- 布施
- 現代は 「私が」 という気持ちばかりが先に立ち、
布施を忘れているように思えてなりません。
清水寺貫主
森 清範 さん
もり・せいはん 1940年、京都市生まれ。15歳で得度。花園大卒業後、清水寺真福寺住職などを歴任。88年、清水寺貫主・北法相宗管長に就任。著書に「人のこころ 観音の心―命こそ仏さま」など多数。
- 梅の姿のすばらしさをつたえる長浜盆梅展。
20年来のファンであります長浜盆梅展。梅の姿のすばらしさもさることながら、何ともいえない梅の高貴な香りが楽しみで、毎年のように訪ねております。その盆梅展の広報宣伝を担っております長浜観光協会から先月、盆梅一鉢が清水寺に奉納されました。一重の白梅で、私は「白雲」と名付けました。「白」には清浄無垢(しょうじょうむく)、無私の意味が込められています。観音の心であります。
観音菩薩は梵語(ぼんご)で「アヴァローキテーシュヴァラ」といいますが、「アヴァ」とは「離れる」、「ローキテー」とは「観る」、「シュヴァラ」とは「自在」という意であり、西域からの中国渡来僧鳩摩羅什(くまらじゅう)は「観世音」と翻訳し、唐の玄奘(げんじょう)三蔵は「観自在」としました。いずれもきれいな訳です。
雑宝蔵経が説く「無財の七施」
- かれんな花を咲かせる白梅「白雲」。白には清浄無垢、無私の意味が込められており、観音の心でもある。
「観る」というのは「私」、つまり主観です。「離れる」とは「自我」から離れることです。観音経は私たちがたくさん愛欲を持っていても、観音を念ずれば愛欲から離れられる、憎悪や愚かさからも離れることができると説いています。私たちは常に自分の都合のいいところにわが身をおいています。自分以外のために時間を使うということは、自我の私とは反対側に身をおくことになります。これこそ観音の心です。
そのような行いとして雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)は、「無財(むざい)の七施(しちせ)」を説いています。誰もが何も用いなくてできる布施です。やさしい眼差(まなざ)しや顔をする「眼施(げんせ)」と「和顔施(わがんせ)」。「言辞施(ごんじせ)」は相手を思う言葉遣いをすること。身をもって手助けする「身施(しんせ)」とやさしい心配りの「心施(しんせ)」。「床座施(しょうざせ)」は座席を譲り、「房舎施(ぼうしゃせ)」は過ごす所を提供することです。
ひたすら聴いて相手を受け入れる耳施
- 清水寺御本尊十一面千手観音お前立ち
私はこれにもう一つ加えたいと思います。8番目に「耳施(じせ)」です。耳を傾け、ひたすら聴いて相手を受け入れることです。「無財の七施」が能動的な行いであるのに対し、耳施は受動的であるところが違います。耳を通して相手と一体になり、心を共有するのです。ドイツの古い言葉に「人と喜びをともにすると2倍になり、人と悲しみをともにすると半分になる」とあります。観音とは、私、つまり主観である「観」と私を取り巻く環境や世間、つまり客観である「音」とが 一つになることです。これが耳施です。
近ごろは人前でお母さんが乳飲み子に母乳をふくませている姿を見掛けることは少なくなりましたが、乳飲み子がお母さんを見ている目とわが子を見ている母親の目の見つめ合う光景は、何ともいえない情愛を感じさせます。子どもあってのお母さん、お母さんあっての赤ちゃん。それが一体になっています。お母さんと赤ちゃんは一体になって生かされています。相手から無量のエネルギーをいただいています。
「無財の七施」、そしてもう一つ耳施という徹底的に受動的な布施の行いによって、私たちは生かされている自分に気付かされます。現代は「私が」という気持ちばかりが先に立ち、このような布施を忘れているように思えてなりません。
きょうの季寄せ(三月)
今日は雛(ひな)祭、旧暦で行うところは今年は4月12日である。
「しみ」は衣魚とも記すように衣服・紙類に生息し食害する。銀色なので「雲母(きらら)虫」という美しい別称をもつ。
手入れを怠ると掲句のようにもなり、青々は「紙雛(かみびな)や毛氈(もうせん)ふるき虫の穴」「紙魚のつく衣うち着たる祭哉」と用捨(ようしゃ)なく見る。
(文・岩城久治)
「きょうの心 伝て」・36
今本 江美子 さん (京都市右京区/63歳)
頂いた言葉に感謝
40歳のときに、私が尊敬する方が一生忘れられない言葉を残して、46歳の若さで亡くなられました。
その方はいつも、「人間は1番に心、2番に愛が大切だ」と、言っておられました。その言葉通りに、孫である1人目の男の子に「心」、2人目の女の子に「愛」と命名して、天国へと逝かれました。
心は、はかることができません。しかし、心は、その人の態度とか姿勢に表れるものだと思います。そして、愛は思いやりです。思いやりは人に対しても、動物に対しても、植物に対しても、命あるものすべてに対して本当に大切です。私もこの年になるまで、いろんなことがありましたが、常に多くの方々からの「心」と「愛」を頂いて、今日があると感謝しています。いろんな出来事が日々あるなかで、一日の終わりに、暖かなおふとんで眠れる幸せに「ありがとうございました」と手を合わせて感謝できるのは、その方の言葉のおかげと、心から感じています。