日本人の忘れもの 第2部

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京都発「日本人の忘れもの」キャンペーン第2部

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第34回 2月17日掲載

死語
意味を空洞化されてもなお、葬り去られることのない言葉。
それもまた言葉の峻厳なるありようなのだ。

村山明さん

京都市立芸術大学長
建畠 晢 さん

たてはた・あきら 1947年、京都市生まれ。美術評論家。早稲田大文学部卒。多摩美術大教授、国立国際美術館長を経て現職。90年、93年のべネチア・ビエンナーレ日本コミッショナー。詩人としては、歴程新鋭賞、高見順賞を受賞。

イメージ その1

“忘れる”というのは、考えようによっては一つの能力であるのかもしれない。私自身、何とか日々平穏な気持ちでいられるのも、ひどく記憶力に乏しい、つまり人並み以上の 忘却力に恵まれている (まあ、ものは言いようである)からで、もし忘れる能力を失ってしまえば、怒りだの、恥ずかしさだの、悔しさだの、悲しさだのに埋め尽くされて、到底、まともな人生は送れないはずである。

忘れる能力は個人だけでなく、集団や社会にも備わっている

イメージ その2
いつまでも死語にならないようでは、一つの時代の感覚を鋭敏に反映する言葉たりえないのである。(2012ユーキャン新語・流行語大賞)

忘れる能力は、個人ばかりにではなく、おそらくは集団や社会にも備わっているのではなかろうか。たとえば、死語である。社会は自らが生み出した流行語をたちどころに忘れ去ってしまう。いつまでも死語にならないようでは、一つの時代の感覚を鋭敏に反映する言葉たりえないのである。第1回流行語大賞(1984年)なるものを受賞した「○金、○ビ」は、若い世代には何のことやらわからないだろうが、だからこそ大賞たる資格があったといってもよい。

奇妙に聞こえるかもしれないが、最近私は、この死語に、あるいは死語になりかけている言葉に、少なからぬ関心を抱いている。広辞苑は改定される度に死語になってしまった言葉を排除していく。死語は単に使われなくなっているというだけではなく、その存在自体が社会的に抹消されてしまうのである。中年男が「ナウいギャル」などといって嘲笑されるのは、裏返していえば流行(はや)っていた言葉を葬り去ろうとする集団的な本能の強さを物語っていることになろう。

祖国は死語と化すことなく、記憶に留まり続けてきた。

イメージ その3

もっとも流行語ばかりが忘却の宿命に置かれているわけではない。辞書の上では維持されていても、時代の推移によって内実が空洞化されつつある言葉、定義が揺らいでいる言葉もある。〈マッチ擦るつかの間の海霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや〉。よく知られた寺山修司の若き日の歌である。霧の海岸で煙草に火をつけようとしている孤独な青年の情景は、殉じるに値する祖国は敗戦とともに失われてしまったという、ひそかなタブーの感覚を伴った喪失感を美しく体現している。一つの言葉を空洞化することによって成り立った戦後という時代の本質を鋭く照射しているといってもよい。

経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言したのは、この歌を収録した寺山の処女歌集「われに五月を」が刊行された1年前(1956年)のことである。しかし現実には日本の社会は平成に年号が改まるまでは戦後意識を払拭(ふっしょく)できずにいたのだった。正直なところ団塊の世代に属する私などは、いまだに心のどこかに戦後の残影を引きずっているといわざるをえない。

祖国は、完全なる死語と化すことなく、私たちの記憶に留(とど)まり続けてきた。かくも長き戦後は、おそらくはそのことと無縁ではないのではないか。意味を空洞化されてもなお、葬り去られることのない言葉。一つの幻影として忘却への傾きに抗する言葉。それもまた言葉の峻厳(しゅんげん)なるありようなのだ。寺山の歌は、そのような言葉の力を宿すことによって、まさに戦後という時代に屹立するモニュメントたりえているのである。

きょうの季寄せ(二月)
くちばしに 春水(しゅんすい)こぼす 荒鵜かな 山本梅史(ばいし)

鵜飼は岐阜県長良川が有名だが、京都の嵯峨嵐山や宇治でも見ることができる。夏の季題であるが「春水」とあるので、かつ荒鵜とあるから、いまだ人馴れしていず、自然の気性があらわで、徐々にその日にむけて馴化(じゅんか)される。

鳥が嘴(くちばし)に啣(くわ)えているものや掲句のような光景は気にかかる句材、白雄(しらお)に 「鶏(とり)の嘴(はし)に氷こぼるゝ菜屑かな」
(文・岩城久治)

「きょうの心 伝て」・34

池上 博 さん 公務員(京都市南区/53歳)

手紙は私の宝物

1月はいぬ、2月は逃げる、で本当に時の経つのは早いと感じるが、これは自分の歳のせいもあるのかもしれない。そして昔を思い出し、何年も会っていない旧友の事を考えると、正月に届いた年賀状を引き出しから探して読み返す。

メール全盛の今、年賀状を書かない人も多いと聞くが、私は手書きで手紙を書くのが好きだ。家にはまだ電話のなかった小学生の頃、夏休みに遊びに来てくれた従兄弟が、秋にくれた鉛筆書きのお礼のハガキがうれしくて、何度も読んで夏休みの思い出にひたった。

今、私は少し耳が遠くなった和歌山のおばさんと、手紙で話をしている。高野山に近いおばさんの家は京都より寒い…。今ごろあのきれいな棚田は雪化粧しているんだろうと思いをはせる。携帯のメールは直ぐに削除するが、手紙は大切に保管して読み直す。

協賛広告を含めた実際の掲載紙面の全体データはこちら(PDFファイル)

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