京都発「日本人の忘れもの」キャンペーン第2部
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- 第32回 伝統文化
第32回 2月3日掲載
- 伝統文化
- 伝統や文化がもっと優位性をもって語られても良いのではなかろうか。
それこそが「国格」であろう。
京都国立博物館館長
佐々木 丞平 さん
ささき・じょうへい 1941年、兵庫県生まれ。京都大大学院文学研究科修了後、京都府教育委員会、文化庁で文化財保護行政に携わる。その後、京都大大学院文学研究科教授を経て現在、独立行政法人国立文化財機構理事長・京都国立博物館館長。著書に「与謝蕪村」「池大雅」「浦上玉堂」「円山応挙研究」など。
私が文化財保護の仕事に関わり始めた頃のことである。偶然目にした一枚の写真に大きなショックを受けた。無数の仏像が首や手足をもぎ取られ、悲惨な姿で無造作にかき集められている、そんな光景の写真であった。一体これは何事が起きていたのだろう。それはどう見ても火災などの大きな災害の爪痕といった状況でもない。しかもこの光景がわが国で起こった出来事であったのだろうかと一瞬目を疑うほどであった。
廃仏毀釈の実態に戦慄を覚えた
- 伝統文化の基盤を支えるため明治28年に創建された帝国京都博物館(現京都国立博物館本館)。
これは紛れもなく明治維新直後から日本国内で嵐のように吹き荒れた社会現象の一コマである。神仏分離令とか廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)といった言葉は歴史でも習っているが、その実態はこうした結末を招いていたことを知り、ある種の戦慄(せんりつ)を覚えた。これに更(さら)に文明開化の嵐が襲いかかる。こうしてかけがえのない文化に対し人間が無関心になるとその波及は際限を知らず、今では日本の伝統文化の象徴のようにして輝きを放っている奈良興福寺の五重塔が25円で、姫路城が100円で、彦根城が700円で売りに出されるという事態にまで発展してしまった。幸い取り壊しにそれ以上の経費がかかるということで中止になったり、救済に心血を注ぐ人物が現れたりして、いずれも破壊は免れたものの、人間の無関心が引き起こす結果には空恐ろしいものがある。
これはごく一部の例に過ぎない。丁度その頃、明治政府は欧米から多くのお雇い外国人を招き入れていたが、彼らの目にもこうした光景は異様に映ったらしく、例えば明治天皇の侍医を勤めていたドイツ人ヴェルツなどは、日本人はどうしてこんなにも易々(やすやす)と自らの伝統文化を放棄してしまうのだろうと嘆き、驚きもしている。
輝き放つ伝統文化に目、意識、関心向ける視点を
長い時の経過を経て存在している伝統というものは極めて繊細なものであり、人間の目や意識が常に注ぎ続けられなければもろくも崩れ去るものである。しかし、伝統というものこそ歴史を単なる時間の継続で終わらせるのではなく、歴史に輝きを与えるものであり、一つの国が輝いているかどうかは、この伝統をしっかりとその国の骨格に据えているかどうかにかかっているように思える。伝統に支えられたブランド商品がやはり個性と輝きを持っていて世界的にも注目されるように、世界に注目されるブランド国家としての国の格を堅持するためには、どうしても伝統の輝きを備える必要がある。
一国の実態を支えているのは政治であり経済であり教育である。このいずれの領域においても、伝統や文化がもっと優位性をもって語られても良いのではなかろうか。それこそが国の格、「国格」といえるものであろう。
日本がかつてのような惨事というべき異様な事態を繰り返さないためにも、時間の経過に晒され、耐え抜き、洗練された輝きを放つ伝統文化に、目を向け意識を向け、関心を向ける視点を、政治の中にも経済の中にも教育の中にも設定することを忘れてはならないと思う。
きょうの季寄せ(二月)
きょうは節分、明日から春である。「誰が兒ぞ」は、「誰(た)が兒(ちご)ぞ」と読むのか、「誰(だれ)が兒(こ)ぞ」とも読めるが、口調は前者が落ち着く。
「が」は連体格を示し、句意は節分で鬼の面をつけているこの子はいったいどこさんのお子かねと問いただしている。
露石に京都を詠んだ句が多く、その一つ
「大文字に残(のこ)んの雪や春まだき」(文・岩城久治)
「きょうの心 伝て」・32
佐山 福繁 さん (京都市上京区/85歳)
花の「こころ」
以前、「ジャパンスピリッツin 京都 ~華の競演~」が展覧された。
“今や世界に息づくわが国の伝統文化”として、その美を各流派が競い立つ華麗さ、荘厳さに私はしばしその場で立ちつくしてしまった。趣味として始めていた生け花にこの様に鋭く大きな道があることを私は知ることになった。
連綿として受け継がれ、たゆまぬ努力で築き上げられた、華の道。その伝統を生み育て伝えて来た先人の「こころ」こそ、世界に誇る日本の文化であり「こころ」ではないであろうか。
私はこの日以来、ひっそりと野に咲く草花、絢爛(けんらん)豪華に咲き誇る花の命の不思議、その美しさの本質をめぐる想像もつかない大きな迷路に誘い込まれる事になってしまった。そして、花の存在が米寿に近い私の生命に、いや私の魂に、忘れていた花の「こころ」を呼び起したのかもしれないと思い始めている。