日本人の忘れもの 第2部

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京都発「日本人の忘れもの」キャンペーン第2部

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第28回 1月6日掲載

手書き文字
京都は街中でも、路傍でも、郊外の景勝地でも、
いたるところで美しい、ゆかしい書に出会えます。

杭迫柏樹さん

書家
杭迫 柏樹 さん

くいせこ・はくじゅ 1934年、静岡県生まれ。京都学芸大(現教育大)美術科書専攻卒業。書家村上三島氏に師事し、素朴で鋭い線が特徴の書風。京展賞や日展特選、日本芸術院賞など受賞多数。2012年12月には、京都市文化功労者に認定された。主な著書に「王羲之書法字典」や「書 心の風景 杭迫柏樹作品集」など。日展理事、日本書芸院理事長。

ナントヒドイ!子供でもこんな粗末な字は書かない。

このたびの衆院選で、各党首がスローガンを自筆でアピールする場面をテレビで見て、「文字の美しさは、一国の文化のバロメーター」を信奉する私は、一瞬あきれかえって言葉を失いました。

「僕には、書ほど書く人の値打ちを露骨に示しているものはないと思っている。その人の書を見て、その人が到達している心境の深さがわかるように思える。僕は書を見る人をごまかせないと思う。その人の真価を、書ほどはっきり表現しているものはないと思っている。」

自分を見失わずに生きた人こそ文化の推進者

イメージ その1
書=「颷起(ひょうき)」杭迫柏樹
※「颷起」は、つむじ風がわき起こる意

 武者小路実篤(さねあつ)さんのこの一文は、人と書の関係を見事に語っています。手書き文字の美しさは、それほどに大切なものだと思いますが、この各党首のスローガンを見て、皮肉にも「最も高尚なものから、最も低俗なものが生まれるのは、仏の側に生臭坊主がいるのと同じ道理だ」と喝破(かっぱ)された髙村光太郎さんが思い起されます。

現代は、「喧噪(けんそう)の時代」「病める時代」「機械化の時代」などと言われますが、実は、いつの時代もそうであったようで、歴史上の大人物も、平和でのんびり暮らしていた人など知りません。大切なのは、「忙中の閑」の心境で、都会の真ん中に住み、毎日を日々の生活に忙殺されながら、自分を見失わずに生きた人たちが、偉大な文化の推進者であったことは、古今東西共通であります。

「手書きの文字には魂が宿る」を実感した

イメージ その2
王羲之「定武蘭亭序―韓珠船本―」(台東区立書道博物館蔵)
イメージ その3

現在の境遇にグチを言うのはやめましょう。

さて、「手で文字を書く」という文化が、急速に衰えつつある時、私は意外な場面に直面しました。忘れもしない、あの2001年9月11日に起きたニューヨーク同時多発テロの直後、ニューヨークの全ての街角のビルの、手のとどく限りの壁に、英語(あたりまえですが)で、親の消息をたずねる家族たちのビラが貼られていました。何と、これが全て手書きの文字だったのです。あのアメリカで……。「手書きの文字には魂がこもる」を実感した瞬間でした。そして、「日本人の忘れもの」であったことも。

でも救われるのは古都京都。街中でも、路傍(ろぼう)でも、そして郊外の景勝地でも、いたるところで美しい、床(ゆか)しい書(手書き文字)に出会えます。日本人の忘れものに。

書聖、王羲之の書は、日本の書の先祖にあたりますが、残念なことに一点の真跡(しんせき)も存在しません。そこで真似て学ぶわけですが、唯一の真跡から12の模本を作ったとして、その12の模本から、さらに12の模本を作り、それが12回繰り返されると、なんと、276億8257万4402という天文学的数字になります。

これほどすばらしい手書き文字の美を、日本人はますます忘却の彼方(かなた)へ押しやろうとしています。残念でなりません。

きょうの季寄せ(一月)
一月も 三日過ぎけり 樹にからす 老鼠堂永機(ろうそどうえいき)

今年ももう6日になる。元旦に声を聞き、あるいは見た鴉(からす)を「初鴉」と呼んでいる。「庭つ鳥」、鶏(にわとり)はかつて、暮らしの中の生き物だったので「初鶏」と詠まれている。身近な故に「初雀(すずめ)」も詠まれている。愛犬家が増えて犬も暮らしを共にしているとはいうものの、「初犬」とは詠んでいない。猫も然(しか)りである。歳時記季語立項の話である。
(文・岩城久治)

「きょうの心 伝て」・28

宮脇 次郎 さん 会社役員(京都市中京区/63歳)

命をかける

聚楽第跡から当時の石垣が発見され、現地説明会に行ってきた。

聚楽第は、関白となった豊臣秀吉が天皇を補佐するために、京都に公邸として構えた安土桃山時代の広大豪壮な城郭である。石垣の遺構は聚楽第本丸の南側の一部と説明され、見学地点から約6メートル下の土の中に整然と並んでいた。石垣の延長線上には、マンションや住宅が見える。住宅の下に、昔の栄枯盛衰が眠っていた。1年足らずで造営された城郭は8年の歳月を経ただけで取り壊され、遺構はほとんど残っていないはずの幻の城郭である。石垣から聚楽第のスケールを連想すると、秀吉の天下人としての絶大な権力が偲(しの)ばれる。たった1年で完成させた力や富は想像を絶し、石工や大工は秀吉の命(めい)を人生や命をかけて成し遂げたように思う。今の時代に人生のすべて、命をかけることは何か。秀吉は権力者になるために命をかけていた。時の総理大臣の「命をかける」はむなしく聞こえた。

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