日本人の忘れもの 第2部

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京都発「日本人の忘れもの」キャンペーン第2部

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第19回 11月4日掲載

謙虚な気持ち
自然と共に、他のものと共に、
歩んでいく大切さにもう一度、気づこう。

大津 光章

華道都未生流6世家元
大津 光章 さん

おおつ・こうしょう 1954年、京都市生まれ。華道都未生流五世家元・大津隆月の長男として生まれ、86年6世家元を継承。浄土宗高樹院19世住職、(公財)京都市芸術文化協会副理事長、(公財)日本いけばな芸術協会常任理事などを務める。古典と現代の接点を求め、野外、演劇、など多様な試みに挑戦している。

秋も盛りになれば、あちらこちらで花会が催され、まるで花に追われるような日々を送っている。毎週のように生け込みがあっても、不思議なことに花が上手く生けられたときは、全然疲れもせず、逆に元気を貰った感じさえする。その反面、思うように生けられなかった場合は、もう全身疲労困憊(こんぱい)である。そういうときは、たいていが個性というか自分の我(が)が勝ちすぎていて、作品に出てきた場合が多いようだ。いのちを生けることの難しさを自覚する時である。

伝書の奥底に自然の摂理

イメージ その2
花を生ける、その根底に流れているものは、物も含めた全ての他への思いやりと自然に対しての畏敬の教えである。
作品名「秋草の錦挿け」 花材=矢筈薄(やはずすすき)・大蓼・女郎花(おみなえし)・桔梗

ところで、常々思っていたことだが、春の花に比べ秋草は艶やかな反面、どこか寂しい印象を受けることが多い気がしてならない。春の花は、ようやく厳しい冬を乗り越え、息吹を感じさせる萌(も)える花であるが、秋草にはやがて来る冬を耐え忍ぶという、一抹の不安をそこに感じてしまうからであろう。

伝書においても「秋草は、多種をもって生けるべし」とか「錦挿け」などと呼び、賑(にぎ)やかに、およそ5種や7種も取り合わせて生けるようにと、春の花とは異なる扱いを要求している。単純にビジュアルの美しさだけを表そうとしたのではなく、先人たちは伝書のその奥底に、大きな自然の摂理というものまで見据えていたのではなかろうか。いくつかの例を挙げると「魚道分け」という生け方がある。

水辺の姿を水盤に映すときには、水草の株と株の間に目には見えないけれど、魚たちの通い道を空けておきなさい、という生け方がある。また、南天をいける場合には、「鳥の嘴(くちばし)当りの伝」という手法を施すように決められている。南天の赤い実の中に2、3個、わざと皮をめくり、鳥が嘴で啄(つい)ばんだ姿に模したものだが、本来の意味は、この世に完全なものなどなく、赤い実ばかりの南天など自然の姿ではないとして、欠けた白い実をいくつか施すことによって、陰陽すなわち自然界の循環が備わり和合の心得を諭しているのである。

畏れる心を忘れた私たち

イメージ その3
伝書「都未生家伝本(みやこみしょうけでんぽん)挿華手引種(いけばなてびきぐさ)」
イメージ その3
作品名「南天の株分け」 花材=南天・寒菊

こうして伝書を見てゆくと、伝書は単なる生け方の手法であったり、作法であったりといううわべだけを伝えているのではなく、その根底に流れているものは、物も含めた全ての他への思いやりと、自分だけが中心ではないよと諭す、自然に対しての畏敬の教えであろう。

畏れ敬う心は、自分自身に対して謙虚な気持ちが無ければ生まれないものである。私たちは、あまりにも色々な物が手に入り過ぎ、畏れる心を忘れてしまったのと同時に、謙虚な気持ちをも失ってしまったのではなかろうか。

かつては、我々(われわれ)とは別の世界であった暗闇にさえ手を入れ、不夜城の明るさに変えてしまった。もうどこに行っても、暗闇はなくなり我々人間の視線でしかものを見なくなり、人間の主観でしかものを考えなくなった。

いまもう一度気づくことが大切であろう。自然と共に、他のものと共に歩んで行くことの大切さを。私にとって、花を生けることがそのまま、気づかされ、慶(よろ)びにかわっていく。有難いことである。

きょうの季寄せ(十一月)
籠の中の 鶉(うずら)おもひを 鳴(なく)ならん 道立(どうりゅう)

蕪村七部集「続あけ烏」秋之部所収の連句、「於金福寺興行」の脇句「書を読む窓に雨間(あまあい)の月 松宗」に続く三句目の句である。

かつて鶉を飼養しその鳴き声の優劣を競う遊び(鶉合せ)があった。

だから、「伊勢物語」に「野とならば」と男に忘れられた女の詠んだ歌をふまえて、掲句の鶉もその思慕を伝えているのであろう。
(文・岩城久治)

「きょうの心 伝て」・19

田宮 宏悦 さん 会社役員(京田辺市/77歳)

ムダは無駄か?

景気が低迷する昨今。企業でも家庭でも「合理化」が声高に叫ばれています。真っ先に対象となるのが交際や贈答に関わる費用。これらを虚礼として排除する傾向にあるようですが、礼や義の気持ちを表し、心を込めて贈ることや、絆を深めるための交際の中から、茶や華など様々な文化を生み出してきたことが、はたして無駄だと言えるでしょうか。

例えば商品流通では問屋が無駄の温床のように言われていますが、商品にはコストだけでなく、品質と文化性という価値も必要なはず。従来問屋は、高い見識を持つ目利きとして機能し、そのディレクション力によって製作者は付加価値の高い商品を作り、消費者も豊かな生活文化を築くことができたと思います。

発育ざかりの子どもにお腹を満たすミルクや食べ物だけでなく玩具が必要なように、潤いある暮らしのために花や音楽が欠かせないように、私たちはさまざまなムダの中で心を養っています。そのようなムダが行き交う社会であればこそ経済は活性化され、名実共に人々の生活が潤うのではないでしょうか。

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