京都発「日本人の忘れもの」キャンペーン第2部
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- 第14回 競い合う心
第14回 9月30日掲載
- 競い合う心
- 競い合うことで他人の心も理解でき、
切磋琢磨することで友情も育まれる。
画 家
木田 安彦 さん
きだ・やすひこ 1944年生まれ。67年、京都教育大特修美術科卒。70年、京都市立芸術大専攻科修。博報堂を経て、75年作家活動に。大英博物館に木版画16点収蔵。2004年、京都美術文化賞。06年、京都府文化賞功労賞。11年、京都市文化功労者。
- 健全なる精神は健全なる身体に宿るという事が私の支えになっている。
いつの頃から自転車のマナーは、こんなにも悪くなったのであろうか。無燈で携帯電話をしながら、あるいは煙草を吹かしながら、人がいても避けようともしないで走ってくる無法者など、眼を悪くしている私には、夜の散歩など命がけである。しかも圧倒的に女性が多い。
去年の夏の朝のこと。自転車で出かけた私は交差点で一旦停止、左右を確認していたところを猛スピードの自転車に前輪を激突された。何とか踏ん張ってひどい転倒は免れたものの、かなりの衝撃を受けた。
にもかかわらず、その男性は一顧だにせず走り去ってゆく。猛暑の日であるし、私は年も年なので迷ったが、絶対許してはならぬと猛追した。
自分さえよければという人が増えたのはどうしたことか
何とか信号で追いつき、姓名、年齢、職業を聞きただしてみれば、なんと大病院の医師だという。人の命を守るはずの職業の者が人を倒して助けも謝りもせず逃げ去る。あまりの理不尽さに警察に引き連れようと思ったが、医師不足の昨今の状況を鑑みて、反省を促してその場で別れた。
それにしてもこのモラルの無さは何としたことか。人間失格である。
このように、自分さえ良ければ他はどうでもよいという人が増えたのはどうしたことだろうか。
自転車で当たりそうになってにらみつけてくるのはまだましか。道を譲られても感謝の意も表さず、無表情、無感覚な喜怒哀楽のない若者が増えたのは空恐ろしい。
しかし、この嫌な気分を払拭(ふっしょく)してくれたのはロンドン五輪の日本のメダリストたちである。この若者たちの顔はこれぞ日本の若者の顔だ。ひたすら目標に邁進する人たちの顔は美しい。私はなでしこジャパンの銀メダルはプラチナメダルだと思う。
健全なる精神は健全なる身体に宿る
- 「三十三間堂」(ガラス絵 2011)
いつの頃からであろうか、子供に競わせるのは悪だという教育が蔓延(はびこ)り、無気力な若者を増やしたようだ。何事も競う気持ち無くして向上は在(あ)り得ない。また競い合う事により他人の心、気持ちも理解できる。努力したからと必ず報われる訳ではないが、努力しないで報われる事は在り得ないのだ。切磋琢磨(せっさたくま)することで連れもって向上するのだと思う。そして競い合う心と心により友情も育まれ、いじめ問題の解決法の一つになるのだとも思う。
世の中のあらゆる事は競い合う事にある。時の運頼みでなく、それを掴(つか)む気迫が重要。そして勝っても負けてもその結果、喜怒哀楽の感情、感謝の気持ち、そして自己に厳しく相手に暖かい人間性も養われて人は成長する。
健全なる精神は健全なる身体に宿るということわざにあるように、若者は勉学にしろ運動にしろ、ひたすら競いあう心で鍛えてもらいたいものだ。
私も小学生から中学生にかけて、柔道、中学ではさらに剣道、大学生の時に少林寺拳法で身体を鍛えた。身体が強くなると精神面も変貌する。鍛えた結果、何があっても怖くないという気持ちを持った。
作家として自立してからも、この事が何につけても私の支えになっていると思う。そしていつまでも励む心、高める心を持ち、それを極める心まで持っていきたいものと念願している。
きょうの季寄せ(九月)
「彼岸中日の鯊(はぜ)は中気(ちゅうき)の薬」といい、貪欲のため釣り易(やす)く、馬鹿(ばか)鯊と貶(おとし)められる。
「水村山廓酒旗の風」は杜牧(とぼく)の「江南春(こうなんのはる)」の「千里鴬(うぐいす)啼(な)いて緑紅(みどりくれない)に映ず」に続く文言を引用し、春ののどかな景を秋の趣向に仕立てている。
巌谷(いわや)小波(さざなみ)は張継(ちょうけい)の「楓橋夜泊(ふうきょうやはく)」を借り「月落烏啼霜(つきおちからすないてしも)や天満(てんま)の橋の上」、「霜天満(しもてんみつ)」を巧(うま)く言葉を掛け替えた。
(文・岩城久治)
「きょうの心伝て」・14
若林 裕 さん 牧師・大学講師(宇治市木幡/60歳)
祈りの心
初秋の京都、観光客に混じり名所旧蹟を訪ねるのもよいが、路地裏を歩くのも一興である。由緒ある町並みと、町を守るように辻ごとに安置されるお地蔵さんのお顔に心和まされる。しばしば、道端のその祠(ほこら)の前で祈りを捧げる人にも出会う。また路傍(ろぼう)の小さな神社仏閣で、手を合わせる人たちの姿を見かける。家や仕事のこと、あるいは国家の安寧(あんねい)など、その願いはさまざまだろうが、日々の喧噪(けんそう)の一時(ひととき)、手を止めて静かに神仏に向かう人々の佇(たたず)まいにも、古都の伝統の重みが感じられるのである。
日本人は古来、自然を畏敬し、先祖に感謝し、あらゆるものに神聖さを見る自然宗教を大切にして来た。それが寛容な気遣いと、自らの共同体を愛する思いの源泉だろう。
私は創唱宗教に携わる者だが、鎮まって合掌する人々の「祈りの心」に深く思いを寄せる。そこに今日を生きる信頼と希望が垣間見える。今の自分の信仰も、そのような祈りの伝統に確かに接ぎ木されているようだ。