京都発「日本人の忘れもの」キャンペーン第2部
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- 第12回 ツールとしての歴史
第12回 9月16日掲載
- ツールとしての歴史
- 記録として歴史を次代に伝えることは
現在を生きる私たちの未来への責務。
京都市歴史資料館長
井上 満郎 さん
いのうえ・みつお 1940年、京都市生まれ。京都大大学院修了後、奈良大、京都産業大で日本史・京都文化などを担当。2009年、京都新聞大賞受賞、11年、全国社会教育功労者文部科学大臣表彰。現在は京都市歴史資料館長、京都産業大名誉教授。
過ぎ去った時間、歴史をツール、つまり何かに役立てる道具とか手段などいう言葉でとらえることに、多くの方は違和感を持たれるだろう。
近代の日本人は、特に戦後においては、過去の時間の成果である歴史を、封建的などとして否定するべきもの、つまりは故意の忘れものとして接してきた。たとえば景観でいえば、歴史をしのばせる古い町並みは非効率として撤去されてビルやマンションになり、民家の家並みもプレハブ住宅にかえられていった。
暮らしは便利になったが、地域への誇りを持てなくなった
- 正法寺(京都府八幡市)の洛中洛外図屏風/右隻部分・京都府立山城郷土資料館提供
たしかにそれによって新しい景観ができ、暮らしも前進したことは事実にしても、京都にかぎらず日本全国どこでも個性あるマチの姿が次々に消えた。日常的な暮らしは便利になったかもしれないが、他ならないそこで生まれ、暮らし、生涯をすごすのだという、地域・地元への誇りを持てなくなってしまったのである。日本列島が開発ブーム、バブル景気などに浮かれていた時代のことだ。
経済的な発展を追い求めた結果、京都は京都でなくなる寸前まで達していたように思える。「日本に京都があってよかった」といえる日の来ることを、私は予想できなかった。
では何故(なぜ)京都は京都でなくなる危機を回避できたのか。古いとされ、排除する対象としてのみ扱われ、忘れ去られるべきものであった過去の時間、歴史の遺産を、振り返りまた顧みてそれを京都再生のツールとすることに成功したからだと思う。ありふれた京都の町並み、場所によっては明治はじめからの住宅もあったし、その多くは建てつけは悪いし、冷暖房もままならない。
しかし今それが町家ブームでもてはやされていることに象徴的だが、物理的な利便をこえて人の心の奥底にひびくものだったのである。「京都らしい」という言葉がいかにも似合うスポットが京都にはいくつもあるが、それらはほとんどすべて私たちが古いものとかつて思いこみ、否定・克服しようとしてきた要素からなっている。
記憶としての歴史は忘れられ、消えてゆくもの
- 本居宣長「古訓 古事記」(井上蔵)
ひるがえって将来の京都を考えてみよう。京都が京都で今あるのは、千年の歴史の遺産があるからだ。だが油断してはならないだろう。記憶としての歴史は時とともに変容し、さらには忘れられ、消えてゆくものなのだから。だからそれをその時々のツールとするには「記録」という行為が欠かせない。個々人によって揺らぎや片よりのある「記憶」ではなく、しっかりとした共有されるべき歴史の「記録」が必要である。
日本人は、千年をこえる以前から『古事記』・『日本書紀』をはじめとする豊かな歴史の記録を持っている。これらは当時の人々が手すさびとして書いたものではけっしてない。未来への指針となるべきものとして残したのであって、記録しなければ変形したり失われたりするからの行為であり、未来へ向けての作業だったのである。ひとり京都にとどまるものではないが、記録として歴史を次代に伝えることは、歴史を忘れものにしないための、現在を生きる私たちの、未来への責務であろう。
きょうの季寄せ(九月)
「九月十九日未明子規逝く。云々」と前書きして、明治35年、高浜虚子(きょし)は「子規逝くや十七日の月明に」と詠んでいる。
掲句は明治27年作、鶺鴒は石たたき、庭たたきの別称を持つ通り忙しなく尾を上下にして動かす習性がある。秋分の節の終わりを「水初めて涸(か)る」という季節の語に「水瘦せて」は呼応する。 (文・岩城久治)
「きょうの心伝て」・12
山本 重夫 さん 無職(滋賀県高島市/70歳)
地方の誇り
旅は家を一歩踏み出したときから始まり、見聞を広め目的地にて様々(さまざま)な心象、風土、歴史、人々、味覚、土産などに接し、その地域や地方の特性・特徴に触れ学ぶことではないだろうか。
ところが、昨今の地方の現況はどんぐりの背比べとばかり、なんでもあり。北海道に沖縄物産があり、沖縄に北海道特産品を見かけるありさまで、わが愛する京都の産品とて、北に南に小京都たる地域で見かけられる。
これほど、愚かなことがあってはならず。『氾濫する情報と守るべき伝統』から逸脱してしまっていることに気付かなければならない。
首都機能分散や道州制への変遷が行われても、「地方の誇り」、ポリシーは揺ぎないものにして不動でなければならないのではなかろうか。