日本人の忘れもの 第2部

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京都発「日本人の忘れもの」キャンペーン第2部

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第8回 8月19日掲載

伝統の継承
良き風情や人情を絶やさないようにしつつ
新しい世界に通用することをやっていけばいい。

茂山千五郎さん

能楽師大蔵流狂言方
茂山 千五郎 さん

しげやま・せんごろう 1945年、12世茂山千五郎(現・4世茂山千作)の長男に生まれる。父と3世千作に師事し、49年「以呂波」のシテで初舞台。古典の継承はもとより新作狂言や新しい趣向も積極的に取り入れ、76年には狂言界の活性化をめざして「花形狂言会」を発足させる。94年に13世茂山千五郎を襲名、2008年に京都市文化功労者、文化庁芸術祭賞大賞を受賞。

イメージ その1

今でこそ狂言はテレビでも見られますが、昔は御所やお城で身分の高い人しか見ることができない芸能でした。能舞台でしか演じてはいけない、他流派と一緒にやることはならぬと、制約もありました。しかし市井の人にもこの面白さを感じてもらおうやないかと、決まり事にとらわれずあちこちで演じたのが2世千作(10世千五郎)です。神社の奉納から結婚式やお祝いの席など、どんな舞台でも出て行きました。「京都ではおかずに困ったらお豆腐にでもと言うけど、茂山はどこでも出て行くお豆腐みたいなやつや」と陰口をたたかれもしましたが、「お豆腐のように、どんな人にも喜んでもらえたらええのや。もっとおいしいお豆腐になるため頑張ろう」と言ったそうです。

お豆腐狂言をモットーに伝統の世界では革新的な家

イメージ その2
今年3月開催の「茂山狂言会」での親子三代出演「靭猿」。右手前が千五郎の長男・正邦。猿役は正邦の長男・竜正で、この舞台で初めて猿役を勤めた。

芸さえ真っ当であれば、どこで演じてもかまわない。声をかけてもらえることのほうがありがたいということから、「お豆腐狂言」をモットーにした、伝統芸能の世界では革新的な家であったわけです。

どこの世界でも伝統を継承するのは困難だと言われますが、こんな茂山家でも子孫になんとかして跡を継がそうと努力しています。親子の関係で物事を教えるのは難しいので、うちでは1代飛んで、おじいさんに習うのです。親は厳しいけれど、祖父が孫に教えると「あとでおもちゃ買うたるからな」とか、つい甘くなりがちで当たりもやさしい。そんなことから孫は喜んで習うし、跡を継ぎやすくなるのではと思っています。

うちは家業も家庭も一族の結束は重要です。しかし、それだけでは視野が広がらないので、他分野の人と付き合うのも大切。普通の人なら仕事の付き合いもいいけれど、趣味や他業種、ご近所、さまざまな人との交流で人間性の幅を広げたらいい。とりわけ住んでいるまちでのつながりは、多くのものをもたらしてくれます。

人と人とのつながりでまちの良さは受け継がれる

イメージ その3

生まれ育った京都が好きで、これから先も出たいとは思いません。時間のあるときは近隣を散歩しますが、繁華街や花街はずいぶん変わり、以前の良き風情は薄れつつある気がします。しかし家の周りはあまり変わらず、変わらないことが心をなごませます。御所があり、出町の商店街があり、どこへ行ってもいろんな人と気軽に声をかけ合います。

茂山家が現在地に家を構えたのは昭和16年で、このあたりはそれ以前から何代にも渡って住み続けている人も多く、人情の厚いまちです。このごろ近所付き合いと言えばあいさつ程度、それすらしない人がいるそうですが、もっと付き合いは大切にしたほうがいいのでは?

家の形が変わっても、人と人とのつながりが変わらなければ、まちの良さは受け継がれていきます。年老いても気心知れた人に囲まれていれば、孤立することなく居心地良く暮らせるでしょう。ですから町内・学区の行事にどんどん参加してふれあう機会をつくれば、もっと自分のまちが好きになり、人生にも深みが出ると思います。

茂山家は新しいことをやりながらも、伝統を受け継いできました。形のあるなしにかかわらず、長い時間を経てなお、残っているのはいいものでしょう。良き風情や人情を絶やさないようにしつつ、これからの世界に通用することをやっていけばいいのではと思っています。

きょうの季寄せ(八月)
行水(ぎょうずい)も 日まぜになりぬ 虫の声 小西来山(らいざん)

幼児(おさなご)がビニールプールで水遊びをしている光景は通りすがりに見ることはあるが、各戸に浴室が備えられて以来、盥(たらい)に湯を張り大人が汗を流す風俗は見かけなくなった。

盆が過ぎ朝夕の風もひいやりし、日中汗をかくことも少しずつ抑えられる頃ともなれば、湯浴(ゆあ)みも間遠(まどお)いになっていく。虫の音は次第に繁くなる。「行水名残」の季題が懐かしい。
(文・岩城久治)

「きょうの心伝て」・8

中井 康司 さん (亀岡市/59歳)

今、見つめ直す「時」

世の中はすべてが四六時中、そして一年中、休みなく動き続けている。それはあたかも“時”を無視して支配してしまったかのようである。「休みなよ、一服して」と思わず言いたくなる。

京都には数多くの寺院があり、喧騒(けんそう)から離れ、自分を見つめ直す所がいくらでもある。

《時を忘れて 時を知る》


座禅を組んで無の境地に入れば、自分の愚かさを知ることになる。 もちろん、あくせく働いて、そのご褒美で遊ぶのも、それはそれでいいだろう。 しかし、ときには30分間じっとしているのも悪くはない。 何もせずとも時は流れる。そしてその流れた時こそが、忘れ去られた、人としての本分を導いてくれるのではないだろうか。

誰かの力によって無理やりそこに押し込められるのではなく、自らの意思で時と言うものを、もう一度見つめ直してはいかがかな。

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