京都発「日本人の忘れもの」キャンペーン第2部
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- 第5回 オリジナルとは
第5回 7月29日掲載
- オリジナルとは
- 切磋琢磨でしか到達出来ない場所には、
人にしか享受できない、美しい世界がある。
染色工芸家
羽田 登 さん
はた・のぼる 1938年、京都市生まれ。染色工芸家、日本工芸会正会員。64年、京都市立美術大(現京都市立芸術大)日本画科卒業。79年、第26回「日本伝統工芸展」に友禅訪問着「夕東風」を出品、初入選。2006年、京都府指定無形文化財「友禅」保持者に認定。11年、京都府文化功労賞受賞、旭日双光章受章。
- 手描き友禅訪問着「嵯峨菊」(1982)嵯峨御殿をイメージし、嵯峨菊の咲く風景を描いている。御簾、嵯峨菊ともに文様化し、御簾に映るシルエットが秋の日差しを感じさせる。
京都という都市の美しさは、山紫水明の地に、千年の歴史が築いた、自然と人の手が織りなす、人工美の極致だ。町家の風情も、庶民の坪庭から御所に至る数々の庭も、整えられた千本杉が屹立する山並みも、先人から受け継ぐ技術を人々が切磋琢磨(せっさたくま)し、守り続けてきた証しだ。
近ごろは、何かにつけ機械化、デジタル化と言って、いずれは何もかもが無人化されるような未来を描くものが多い。
私の仕事は、手描き友禅の着物を作る事だ。はたしてこれを、機械化、デジタル化し、無人化することは可能だろうか。
作りたい着物をイメージしモチーフをスケッチする
手描き友禅の着物を作るには、まず、作りたい着物をイメージする。次にそれに必要なモチーフ、植物、鳥などをスケッチする。植物園や、動物園へ出かけるのは、学生時代からの基本だ。スケッチから文様を作る。そして、着物の形をした小さな紙に、デザイン(小下絵)(こじたえ)を描く。推敲(すいこう)を重ね、原寸大の草稿を作る。
次に、一枚の着物をつくるための白生地(丹後や、長浜で織られた染用の絹布)を用意し、生地目にそって鋏(はさみ)で裁ち、着物の形に縫い上げる(下絵羽)。そこへ、草稿をもとに青花で下絵を描く。(青花は露草の汁を和紙にしみ込ませたもので、水に通すと消える性質が古来より利用されてきた。)
それが終わると、下絵羽をほどく。青花で描いた線の上に、柿渋の袋から絞り出しながら、糸のように細い糊(のり)を置いていく。糊が乾いた後で、生地を水に通し、下絵の線を消す。糊の線(糸目)だけが残る。これを堤防にし、一筆一筆、色を差していく。使いたい色を調色(染料を混ぜて色を作る)し、その場でまた混ぜたり、濃淡をつけながら、色数に制限なく染めていく。
小さな刷毛を使ってぼかしを入れ、小麦粉を溶いた一陳(いっちん)糊を使って文様や細かな陰影を加える。色を差し終えると、糊や蝋(ろう)を用いて、全ての模様の部分を細かく伏せる。模様の部分は防水された状態になる。大きな刷毛を使って、地色を染める。蝋や糊を落とし、高温で蒸し上げて染料を定着させる。
オリジナルに必要な心を動かす情感、情緒性
これで水元(余分な染料を洗い流す)の後は洗濯しても色が落ちない。乾燥後は湯のし(蒸気で生地幅を整える)を経て、箔を置き、もう一度着物の形に縫い上げ(上絵羽)完成する。
現在のデジタル技術で、出来上がった一枚をスキャンし、絹布にプリントする事は、精度はまだまだ甘いが可能だ。だが、コピーでなくオリジナルが作れなければ、無人化することはできない。
オリジナルを作るには、アイデア、技術は言うまでもないが、人の心を動かす情感、叙情性など、人にしか感知できないものが不可欠だ。それを緻密に表現する繊細な技術には研鑽(けんさん)が必要だ。そこには苦労もあるが、喜びや楽しみがある。これは美術、工芸、文学、音楽等、人々の築いてきたあらゆる文化に通ずる。
デジタル化、機械化が叶わないもの。人々の切磋琢磨によってしか到達出来ない場所には、人にしか享受できない、たまらなく美しく、おもしろい世界があるのだと思う。京都にはまだそれがたくさんある。
きょうの季寄せ(七月)
前書に「鳴瀧(なるたき)といふに一時の宿りを得て」とあるので、「京の終」はここだと知れる。
「斑猫」は、人が近づくと先へ飛んでは止まり、止まりする昆虫、「道おしえ」の別称を持つ。斑猫に案内されるがごとく松美しい鳴滝までやってきた、という句意である。
秀野は評論家山本健吉の妻、宇多野での療養生活はまだ先のこと。
(文・岩城久治)
「きょうの心伝て」・5
青木 勝也 さん 公務員 (滋賀県大津市/38歳)
世間体を尊重した日本人
「世間が許さない」「世間様に顔見せできない」。これまで日本人は「世間」という目に見えない規範を尊重することで野暮(やぼ)な行動に抑止力が働き、高いモラルが保たれてきました。しかし昨今、個の優先、個性の尊重ばかりが叫ばれ、「世間」が軽視されつつあります。その結果、○○モンスターといった相手に無理な要求をする人、路上に座り込んでいる人など、モラルを乱す人が増えたのではないでしょうか。
日本人が気にかけてきたのは「世間で恥をかかない」「世間体を失わない」ということであり、自分の恥も名誉も「世間」を通してのみ実現すると考えていました。しかし「世間」が軽視されると、「恥」への意識も希薄化し、「他人に迷惑をかける」ことがどういうことか分からなくなってしまったのだと思います。
「世間様が許さないから駄目なものは駄目だ」と理屈無しに断固と言える風潮が、モラルの低下した現代の日本社会に必要ではないでしょうか。